第2回 大友宗麟の南蛮文化奨励が生んだ「日本のパエリア」黄飯

時を越えて愛される異国の郷土料理

 平安期の壮大な磨崖仏が残る、九州は大分県の臼杵市。ここに古くから伝わる「黄飯(おうはん)」という郷土料理がある。クチナシの実を煮てつくった煎じ汁で黄色く炊いたご飯の上に、エソという魚や根菜類を具にした「加薬(かやく)」と呼ばれる汁をかけて食べる黄飯は、数ある臼杵の郷土料理の中でも最も代表的なもののひとつである。
 黄飯の歴史は古く、16世紀半ばにさかのぼる。その起源は、キリスト教の布教のために豊後(現在の大分県)にやってきた宣教師がつくった彼らの郷土料理、「パエリア」であると言われている。当時この一帯を支配していたのは、キリシタン大名として名高い大友宗麟。宗麟は、西洋の医学や教育、そして食を積極的に導入し、その領内は南蛮文化の流入により日本で屈指の先進都市となった。

注 南蛮文化:16世紀から17世紀前半にかけて、ポルトガル、スペインなどの宣教師や商人により伝えられた西洋文化

大分県津久見市の大友宗麟墓地公園内に立つ像(津久見市観光協会 提供)

キリスト教に真の理解を示した大友宗麟

 16世紀の半ば、戦国時代の真っ只中のこの時期、豊後国の臼杵を根拠地としていたのが、巧妙な外交政策と積極的な南蛮文化の導入で九州東部の広大な領域を支配した大友宗麟(1530~1587)である。彼はキリシタン大名としても知られ、のちに洗礼を受けドン・フランシスコと名乗っている。
 当時は遙か遠方のスペインやポルトガルから、イエズス会の宣教師がキリスト教布教のために続々と日本に渡ってきており、多くの大名たちは先を争って彼らとの接触を図った。日本には未だ無かった鉄砲や大砲などの兵器、最先端の航海術、世界各地から収集した珍しい財宝など、彼らのもたらす莫大な富と知恵は戦乱の世にあってこの上なく魅力的であったに違いない。戦国大名のなかには、そうした異国よりの使者に対し、表向きは一時的に布教を許し、彼らの持つ新鋭の文化や宝物を目的に近づくという者が多かった。宗麟も当初は南蛮貿易によって利益を得るためにキリスト教の保護を行っていたが、やがて宣教師たちの説く教義にひかれ、積極的に活動の支援に乗り出す。ついには九州の地にキリスト教の理想郷の建設を夢見るまでになった。
 宗麟の厚い庇護を受けた宣教師たちの布教の結果、領土内では臼杵をはじめ府内(現在の大分市)やその近隣の住民にもキリスト教徒が急増し、多くの船が行き交う臼杵は日本屈指の南蛮貿易港として大いに栄えた。
 『切支丹風土記』(宝文館発行、片岡弥吉・半田康夫 著)にも「豊後府内は豊後の布教中心地であるばかりでなく、日本における布教の中枢として耶蘇教会から重視されていたのである。したがって府内の城下町には、衣食住その他全般にわたって、異国情緒が漂っていた」とある。ちなみに、今では日常的に食されているカボチャも宗麟時代に豊後に渡来し広まったといわれており、建築や戦術兵器だけではなく、食に関しても積極的に南蛮文化を取り入れた宗麟の政策が垣間見える。

「黄飯」
臼杵では古くから、もてなしの場や祝い事といった場面に食されており、武士の家では戦勝時に出されたことから、「カチドキ飯」との別名がある。江戸時代の臼杵藩においては、節約術として赤飯の代わりに黄飯が用いられていた。簡単につくれて味も良く、栄養価も高い上に経済的な部分が重宝されたのである。また、一部には黄飯は中国を起源とするという説もある。中国の禅院で食された、野菜など煮物をのせたご飯を「法飯」と呼び、それが訛って「黄飯」になった、というものだ。このように多くの言い伝えのある黄飯だが、歴史上外国文化の影響を色濃く受けた大分ならではの郷土料理と言えるだろう。(臼杵市産業観光課 提供)

宗麟の想いと共に今に伝わる黄飯

 当時の日本について、渡来した宣教師たちが本国への報告のために記した『イエズス(耶蘇)会士日本通信』には「日本の気候はスペインと似ていて、作物も同じような物が採れる。日本人は礼儀正しく信仰心に篤いが、国内はどこも戦乱が絶えず、特に食料は少なく非常に粗末な物しかない」とある。
 そのような状況の中、宣教師ガスパル・ヴィレラが1557(弘治3)年の復活祭の際に、教会に集まった400人の信者に対し、自身の故郷の郷土料理である、肉を炊き込んだ色の付いたご飯を振る舞った。これこそが、400年以上を経てなお地元で愛される黄飯、その元となったパエリアであったといわれている。本来はご飯に色を付けるのにサフランを使うのだが、サフランの採れない豊後では、代わりに武士が湿布薬として持っていたクチナシを使った。宗麟による南蛮文化の奨励という大分特有の歴史的背景、そして風土への適応から生まれた今に続く郷土料理「黄飯」は、このようにして誕生したのであった。そして宗麟自身もたびたびこの教会に通い、宣教師たちと食事を楽しんでいたという(『一六・七世紀イエズス会日本報告書集』同朋舎発行より)。その際に、宗麟も黄飯を食した可能性は大いにあるのではないだろうか。
 黄飯などの食にはじまり、彼らのもたらした多くの文化は、今もこの地に色濃く根付いている。例えば、大分県に隣接する宮崎県延岡市の「無鹿(むしか)町」という地名は、「音楽」を意味するポルトガル語「MUSICA(ムジカ)」からきているという。西洋音楽のように美しい町をつくりたい、という想いから大友宗麟が名付けたともいわれている。
 名門・大友氏の最盛期を築いた名将として今に語り継がれる大友宗麟。彼の宿願であったキリスト教の理想郷建設という夢はかなわなかったが、彼の南蛮文化への想いは、時代と共に形を変えながらも、歴史と共に郷土に根付く食文化として、現在に伝え残されている。