日本人がこよなく愛する「桜」。古くは8世紀に編さんされた『万葉集』の中にも、桜を詠んだ歌が数十首収録されている。
春の訪れを告げる桜が季節の風物詩であることは、昔も今も変わらない。しかしそれ以上に、満開の桜が見せる華やかさと、わずか2週間たらずで散りゆく儚さに、日本人は古来から“美の本質"を見いだしてきた。例えば、鎌倉時代の随筆家・吉田兼好は、『徒然草』において、「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは。(中略)咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。」(桜は満開のときにだけ鑑賞するのではなく、咲き始めや散った後に趣きがある)と説いている。季節の来訪とともに一時だけその“美"をかいま見せる桜の“咲き様"は、四季の移ろいを身近に感じてきた日本人の心情、さらには死生観を体現するような存在なのだ。だからこそ「花見」という言葉が象徴するように、「花」と言えば桜を意味するようになった。
さて、その花見の歴史を追ってみると、812(弘仁3)年に、嵯峨天皇が神泉苑で「花宴」を催したという記述が『日本後記』に残っている。平安時代中頃には、宮中や貴族の間で定例行事となり、鎌倉・室町時代にはその風習が武士階級にも広がった。ただし、それまでの観桜は一部の特権的な人々だけが楽しむ伝統行事としての意味合いが強く、現在の行楽としての花見とはだいぶ趣きが異なっていたようだ。
私たちが花見と聞いてイメージするのは、桜の名所地に出かけ、ワイワイと酒宴を楽しみ、重箱料理などに舌鼓を打つといった光景だ。そのような現在にも通じる花見が行われはじめたのは、京では桃山時代のことであり、人々が山河に分け入り酒宴を楽しむ「物見遊山」が行われるようになった。さらに、花見団子が登場し、花見が大衆文化として広まるのは江戸時代中頃である。
花見文化が転換期をむかえた桃山時代に、それを象徴するイベントが執り行われた。それが豊臣秀吉の「醍醐の花見」である。
1590(天正18)年に後北条氏を滅ぼし、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。派手好きでアイデアマンだった彼は、天下の大勢が決まると、聚楽第行幸(1586[天正14]年)、北野大茶会(1587[天正15]年)といった大規模な催しを次々と実行させた。
1598(慶長3)年に行われた醍醐の花見は、秀吉最晩年のビックイベントである。醍醐寺は京の都の南東に位置する由緒ある名刹であり、ここに正室や側室、嫡子の秀頼をはじめ、配下の武将とその家族など約1,300人が招かれた。当時としては、最大規模にして最も豪華な花見であった。
秀吉のこの催しにかける思いは並々ならぬものがあったようだ。花見の責任者に、奉行の前田玄以を任命し、早くから寺観の整備に務めさせた。自らも下見のために醍醐寺へ足繁く通い、殿舎の造営や庭園の改修を指揮。さらに、醍醐山の山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の桜を植樹した。
花見の開催日は3月15日。伝えられるところによると、前日までの風雨がうそのようにやみ、当日は絶好の花見日和になったという。
場内には8か所の茶屋が設けられ、そこでは各地の銘柄が用意され、茶も点てられた。参加者は茶屋で思い思いに酒宴を楽しんだのだろう。前田玄以の茶屋は湯殿までしつらえられており、秀吉はそこで汗を流し、御膳についたという。
参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられており、そのきらびやかな衣装は秀吉の目を喜ばせた。また、花見の伝統に習って歌会も開かれた。この時の秀吉、秀頼らの自筆の短冊は、今も醍醐寺に残されている。
秀吉は始終上機嫌だった。花びらが散り積もっている野山の小道を、秀頼や女官たちに手を引かれてはしゃぎ歩く秀吉の姿が目に浮かぶようだ。
このように他に類をみない盛大な花見であったが、決して明るいばかりの催しではなかった。醍醐寺で秀吉一行が夢見心地なひとときを過ごしていたとき、朝鮮半島では激しい戦闘が続いていたからだ。
そもそも、醍醐の花見が計画されたのは、朝鮮出兵で苦戦を強いられていた豊臣政権のまわりに漂う暗いムードを払拭したいというのが大きな理由であったという。何より体力的にも精神的にも不安定な状態に陥っていた、秀吉自身の気晴らしという側面もあった。会場となった醍醐寺の周辺は弓・槍・鉄砲を持った警備兵が囲み、そのものものしい警護も秀吉最後の宴に暗い影を落としていた。
醍醐の花見からわずか5か月後に、秀吉は没する。彼が最後の栄華を見せつけた醍醐の花見は、一見すると貴族趣味的な権勢の花見であったが、桜を肴に酒宴に興じるという点で、当時流行りはじめていた民衆的な花見に近いものでもあった。それに秀吉でなければ、花見を大規模なイベントにしてしまうという発想は生まれなかったであろう。現在の花見が華やかで騒々しいのは、そこに秀吉のキャラクターが息づいているからだ、と言ったら言いすぎだろうか。