第6回 平賀源内と土用の丑の日 ~稀代の才子が生んだ日本の慣わし

夏場をしのぐ日本の知恵

 われわれ日本人には、土用の丑(うし)の日に鰻を食べる習慣がある。土用とは、古代中国で生まれた五行説(万物は木、火、土、金、水の5元素から成るという思想)上の季節の分類の一つで、各季節の終わりにおける約18日間のこと。土用の中で十二支の丑の日にあたるのが「土用の丑の日」である。暑い盛りである夏の丑の日に精力をつけ、厳しい夏を乗り切ろうというこの慣わしは、一体いつ、どのようにして生まれたのであろうか。
 江戸時代中期に活躍した平賀源内(1728~1779)は、蘭学のみにとどまらず、発明家、江戸浄瑠璃作家、陶芸家、画家、本草(薬学)家など多くの顔を持ち、様々な分野でその才能を発揮した人物として著名である。天才とも奇才とも呼ばれる源内こそが、今に続くこの風習をつくったのではないかと言われているのだ。江戸時代屈指の奇才と鰻、そして「土用の丑の日」には、どのような繋がりがあったのであろうか。

平賀源内肖像(平賀源内先生顕彰会 提供)

時代を先んじた男 平賀源内とは

 1728(享保13)年、平賀源内は讃岐国(現在の香川県)高松藩12万石に仕える足軽の三男として生まれた。高松藩の命により24歳で長崎に留学して蘭学を学び、のちに漢方医学・本草学注1を習得した。その後、藩内において薬坊主格(薬草園の管理者)となる。しかし、あらゆる分野に興味を持っていた彼はやがて脱藩を決意。自由な生き方を選んだ。

注1 古代中国に起源をもち、自然物を生活に役立てることを目的とした、薬物学を中心とする学問。

 以降の源内は、戯作浄瑠璃や西洋画の制作、オランダ製の釉薬(うわぐすり)を使った紫や緑、黄などの彩色あでやかな焼き物・源内焼を考案するなど、多方面でその才を見せる。中でも発明家としての活躍は名高い。火に燃えない石綿を布にした「燃えない布」火浣布(かかんぷ)や、欧州で開発された歩数計を改良した量程機(万歩計)を考案、日本初の発電機・エレキテル(摩擦静電気発生装置)も完成注2させた。

注2 壊れた外国製エレキテルを長崎から持ち帰り、7年かけて復元した。

『物類品隲』(東京都立中央図書館特別文庫室 提供 ※無断使用禁止)
2,000以上にのぼる出展品から厳選した360品ほどの解説が掲載され、中には写生図が描かれているものもある。

 また、彼は薬物など各地の物産を全国から集めた博覧会「東都薬品会」を度々主催している。今では珍しくない物産展であるが、交通・物流が現代に比べ未発達な江戸時代である。各地方から広く物産を求めるには、困難を極めた。そこで彼は、事前に案内状を研究家に送るとともに各地に物産取扱所を設置。出展者はここに持ち込むことによって、源内と提携した飛脚問屋によって江戸までの輸送を行えた。こうした工夫が奏功し、会は実現したのである。さらに開催後には、その品々を種類別に品評した図鑑『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』を刊行し衆目を集めた。ほかにも、頼まれて「漱石膏(そうせきこう)」という歯磨き粉の宣伝文も作成。今でいうコピーライターのような仕事もしていたという。
 様々な分野で功績を残した源内は、交友関係も広く多くの人物と交わった。特に、蘭学者の杉田玄白(1733~1817)は源内の才能を深く愛したことで知られ、彼を「生れ得て理にさとく、敏才にして、よく時の人気に叶ひし生れなりき」と自著『蘭学事始』内で評している。

鰻へのこだわりが生んだ名コピー

 そんな源内と鰻にいったいどのような関係があったのだろうか。日本において、鰻は古く奈良時代から強壮食とされてきた。現存する最古の歌集『万葉集』の中でも、大伴家持が「石麻呂にわれもの申す 夏やせによしといふ物ぞ鰻とりめせ」と詠む歌を見ることができる。江戸期においては、江戸の名物や名所を記したガイドブック『江戸鹿子』(藤田理兵衛著・1687年刊)内で鰻の蒲焼屋について触れていることから、この頃には鰻は蒲焼という形でも広く食されていたと考えられる。そして源内も、この鰻の蒲焼きをこよなく愛した。江戸前の鰻には特にこだわり、彼は当時の江戸を詳説した自著『里のをだまき評』(風来山人という名で著した)で、特に江戸前の鰻へのこだわりを見せている。その中では、江戸前の鰻と他所の鰻を比べて談議を展開、江戸前鰻こそが美味であるとしているのだ。それ以外にも、明治期まで重版が繰り返されたベストセラー戯作集『風流志道軒伝』(平賀鳩渓という名で著した自著)で、「厭離江戸前大かば焼き」、つまり江戸前の蒲焼きの無い生活なんて考えられない、とも記している。とはいえ、源内と「土用の丑の日の鰻」の関係については、明記されている史料は存在せず諸説あるようだ。

1728(享保13)年に発行された『料理網目調味抄』や、1800(寛政12)年の『万宝料理秘密箱』には、現在のものと近い蒲焼きの調理法が書かれている。このことから、たれを使った鰻の蒲焼きは、江戸時代中期以降にうまれたものとされる。

 先述の『里のをだまき評』の中の「土用の丑の日に鰻を食べると滋養になる」との記述をきっかけに、蒲焼きが広く売れるようになったとする説が一つ。もう一つ、源内が商売繁盛のアイディアを求め源内のもとに来た鰻屋に対し「本日は土用の丑、鰻食うべし」と大書した板を店先に出すように指示すると、はたして客が大勢押しかけてくるようになった、というものもある。それを見た他の鰻屋も真似をしたので風習として広まった、というのである。当時は土用の丑の日に、うどんや梅干し、瓜といった『う』の字のつくものを食べると夏負けしないという俗信があり、その部分をついたキャッチコピーが当たったのかもしれない。博学で名の通った源内の言うことならと、江戸の人々も思ったのであろう。
 これらは共に俗説とはいえ、江戸中期の風俗を記した『明和誌』(白峯院著・1822年刊)に、土用の丑の日に鰻を食する習慣は、安永・天明(1772~1789年)の頃よりはじまったとする記述が見られる。源内が亡くなったのは1779(安永8)年であり、土用の丑の日の風習が広まった時期は、彼が活躍した年代ともしっかりと重なる。本草学に通じ天才的なひらめきを持つ源内が、自身の愛する鰻について面白半分に名コピーをひねり出した。こうした噂話が庶民に好まれ、やがてそれが民間伝承として人々の生活に定着し、今に至るまで伝わっていったのかもしれない。源内は江戸の人々に人気があったようで、江戸後期の雑史『続談海』には「死後に至り今に人のをしがるもの」として源内の名が一番に挙げられている。
 江戸の人々に親しまれ、今も江戸時代屈指の才人として人々に知られる平賀源内。彼の非凡な才を愛した人々の思いが、彼と「土用の丑の日の鰻」を結びつけたのかもしれない。