強烈な日射とうだるような暑さが続く日本の夏。この頃になると、波に千鳥の文様、そして「氷」と染め抜いたのぼりを立てたお店が、町中に見られるようになる。そこで食することができるのが、細かく削った氷に多彩な味のシロップをかけて楽しむ、かき氷である。我々に清涼感を与えてくれるこの氷菓は、俳句において夏をあらわす季語になっている。一体いつ頃から夏の風物詩として親しまれるようになったのだろうか。
ところで、鴨長明の『方丈記』や吉田兼好の『徒然草』と並び、日本三大随筆と称されている『枕草子』は、一条天皇(980~1011)の皇后である定子(976~1000)に仕えた才女・清少納言(生没年不詳)により執筆された。平安時代中期に書かれたこの随筆に、かき氷に関する記述を見ることができるのである。女流文学の傑作として知られる本著において、かき氷はどのように描かれているのだろうか。そして、清少納言との関わりとは―。
清少納言は、正確な生没年や活動年は判明していない。百人一首に登場し三十六歌仙の一人に数えられる歌人であった清原元輔(908~990)の娘として生まれた彼女の姓は清原、名は不明とされている。清少納言というのは女房名(宮中や貴族に仕えた女性が出仕の際に名乗る名)である。
陸奥守・橘則光(965~没年不明)と結婚した後の正暦年間(990~995)に、中宮定子に仕え始める。博学で才気溢れる清少納言はやがて定子の寵愛を受けるようになった。
「春はあけぼの」のフレーズで始まる『枕草子』は、自身が仕えた定子を中心とした宮中の様子や貴族社会の華やかさ、四季の自然や筆者が日々心に感じた物事を、鋭い感受性で書き連ねたエッセイである。「をかし(=興味深い)の文学」と評されるように、流麗で明るく好奇心に満ちた文章は高く評価され、広く宮中で愛読されるとともに、後世の文学に多大な影響を与えたといわれている。
やがて定子は他界、彼女を深く敬慕していた清少納言は宮廷を去り、山里で隠遁生活を送るようになったといわれる。その後は『枕草子』の加筆を続け、晩年は尼になって過ごしたともいわれている。
では、その『枕草子』において、かき氷はどのように記されているのか。次のような一段がある。
「あてなるもの。 (中略) 削り氷にあまづら注1入れて、新しき金まり注2に入れたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。」(上品なもの。削った氷にあまづらを入れて、新しい金まりに入れたもの。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかった風情。)
注1 甘葛を煎じた汁。平安時代の甘味料。 注2 金属製のお椀
清少納言は、上品な物、雅な物として、「細かく削った氷片に甘いシロップをかけたもの」を、水晶や藤の花と並べて挙げているのである。
よく冷えた金属のお椀に、氷を盛りつけ、あまづらをかけて食べる……。器の表面は冷気で霞がかったようになり、見た目にも涼しげであったに違いない。今から 1000年も前、平安貴族たち、そして清少納言も我々と同じように、胸をときめかせてかき氷を食べ、暑い夏を乗り切っていたのかもしれない。
とはいえ当時、氷は貴重品であったため、関西の所々の池に張った氷を冬季に採取し、氷室と呼ばれる天然氷の貯蔵庫にわらびの穂を敷き詰めて保存していたという。氷室は日の当たらない山裾の横穴に設けられ、専門の役人が管理していた。
江戸時代には、氷が富士山の氷室から江戸城に運ばれ、代々の徳川将軍家に献上されていた。この頃も変わらず氷室から馬で運んでいたため、城に届く頃には大部分が溶けてしまっていたという。
やがて江戸時代も末期になると、アメリカから横浜の港に天然氷が輸入されるようになる。この天然氷はボストン氷と呼ばれ、アメリカから遥か喜望峰を回って届けられるために非常に高価であったが、日本人の中川嘉兵衛が氷屋を始め、氷水を売り出すようになった。その後、製氷機械が発達したこともあり、氷は庶民が手軽に涼を得る食として浸透していった。なお、現在のようなかき氷屋が誕生したのは明治中頃で、店頭ののぼりもメニューの内容も現在のものとほぼ同じであった。以降、町中にはかき氷屋が次々と増えていき、今は各地でその味を楽しむことができるようになった。
クーラーや扇風機など、暑さをしのぐ手段には困らない現代。しかし、そんな時代だからこそ、夏ならではの風物詩を大切にしたいものである。この夏は、いにしえの平安貴族の生活に思いをはせながら、日本伝統のかき氷を楽しんでみてはいかがだろうか。