第8回 徳川吉宗とサツマイモ ~甘藷の普及に尽力した“米将軍”

サツマイモ普及に努めた“米将軍”吉宗

 秋になると、街のあちこちで目にする焼き芋。ほのかに甘く、体を芯から温めてくれる焼き芋は、サツマイモ(甘藷)を焼いてつくる。入手が容易で加工もしやすいサツマイモは、食卓にのぼることも多く、天ぷらや煮物に、また、甘みをいかしてお菓子にも使われる。元々は中南米原産の野菜といわれ、江戸時代初めに中国から琉球に伝わったとされる。その後、薩摩をはじめ九州地方で生産されるようになり、地方によっては唐藷(からいも)・琉球藷(りゅうきゅういも)などとも呼ばれている。
 江戸時代の中頃になると関東でも広く栽培されるようになり、天災などで米の収穫が激減した際には、米に代わり多くの人々の命を救った。このサツマイモ普及の背景には、徳川幕府8代将軍・徳川吉宗(1684~1751)の働きがあったという。「徳川幕府中興の祖」と呼ばれる吉宗と、サツマイモ。両者の間には一体、どのような関係があったのだろうか。

徳川吉宗肖像(徳川記念財団 提供)

幕府中興の祖・吉宗

 徳川吉宗は1684(貞享元)年、徳川御三家の一つ、紀州藩(現在の和歌山県と三重県南部を統治)2代目藩主・徳川光貞(1627~1705)の四男として誕生。幼名を源六、新之助などと名乗った。14歳の時、5代将軍・綱吉(1646~1709)に拝謁した際に領地を賜り、葛野藩(かずらのはん、現在の福井県丹生郡越前町)の藩主となる。その後、兄が相次いで亡くなり、吉宗は1705(宝永2)年に22歳の若さで紀州藩主の座に就く。そのとき、綱吉より一字を賜り、名をそれまでの頼方から吉宗とした。その頃の紀州藩は、度重なる屋敷の焼失などで幕府からの借用金が膨大な額となり、財政が逼迫していた。吉宗は質素倹約を徹底するなどし、財政再建に着手。家臣の華美な服装を特に嫌い、自身も質素な小倉織の袴に木綿の羽織といった格好で通した。さらに、訴訟箱を設置し庶民の進言を施政に取り入れる一方、武芸の奨励や学問の振興にも努め、藩政改革に尽力。藩の財政を立て直した功績とともに、庶民の苦しみを知る藩主として讃えられた。
 1717(正徳6)年に7代将軍・徳川家継が8歳で死去すると、紀州藩主であった吉宗は幕府に8代将軍として迎えられた。ここでも吉宗は財政再建を皮切りに改革を推し進める。多岐にわたった一連の治政は「享保の改革」と呼ばれ、今日まで高く評価されている。また、吉宗の政策は米の増産や価格の安定など米を中心に据えた改革が多かったため、“米将軍”とも呼ばれるようになった。

数多くの料理が紹介されている『甘藷百珍』。そのレシピは、現代のものとは異なり非常に簡潔かつおおらかな内容であった。それぞれが自己流にアレンジして調理し、その味を楽しんでいたと思われる(東京都立中央図書館蔵)。

飢餓を救った決断

 では、吉宗とサツマイモはどのように結びつくのであろうか。吉宗がサツマイモに注目するきっかけとなったのが、1732(享保17)年に発生した「享保の大飢饉」である。この年、西日本諸地域でウンカ(稲の害となる昆虫)が大発生、加えて冷夏であったため、収穫のなくなった農村を中心に深刻な食糧難に陥った。この飢饉では、最終的に1万人以上が命を落としたという。
 事態を憂えた吉宗は、長崎出身の近臣・深見新兵衛に九州の飢饉の様子を尋ねた。吉宗は、サツマイモの生産を奨励していた薩摩で、餓死者がほとんど出なかったという点に着目する。そこに江戸町奉行・大岡忠相(1677~1752)が、かねてよりサツマイモを救荒作物にと研究していた儒学者・青木昆陽(1698~1769)を吉宗に推挙した。米に頼らない食糧体制の構築に腐心していた吉宗に、昆陽は自著『蕃藷孝』を上呈する。『蕃藷孝』は『農政全書』(1639年、明の徐光啓著)をはじめとした中国の様々な書籍を引用し、救荒食としてのサツマイモについてわかりやすくまとめたものであった。

江戸時代に国内で広く栽培されるようになったサツマイモ。江戸時代の後期には、苗床で苗をつくり、施肥・作畦や採苗、挿苗や貯蔵が行われていた。収穫量も現在とあまり変わらない水準を保っていたと言われる。

 サツマイモは、天候の不順や荒れた土地、病気にも負けずに育つ。そのうえ、栄養価は高く、長期保存が可能。『蕃藷孝』に記されたこうした特性に目を付けた吉宗は、昆陽を登用し関東地方におけるサツマイモ普及活動に乗り出す。当時、サツマイモを大量に食べすぎると悪性の腫れ物ができるなどといった説も一部で流布していたが、吉宗はサツマイモの有用性を信じ、飢饉対策の柱と定めたのだ。
 吉宗はまず、庶民にも読めるよう『蕃藷孝』を仮名混じり文に書き改めさせる。栽培のポイントや食べ方、保存法などの要点をわかりやすくまとめさせ、薩摩より取り寄せた種芋と一緒に、伊豆七島などに配布した。また、昆陽を中心に、江戸の小石川薬草園や下総の馬加(まくわり)村(現在の千葉県・幕張)でサツマイモの試作を開始する。そこで収穫した種芋を諸国に分け、栽培させる。この繰り返しで、少しずつ栽培地域を拡大していったのである。こうして、徐々に関東地方にサツマイモ栽培が定着し、のちの天明の大飢饉をはじめとする飢饉の度に多くの命を救うこととなった。青木昆陽をはじめサツマイモの普及に力を尽くした先達に感謝した人々によって、馬加村には昆陽をまつった神社も建てられた。サツマイモが、どれだけ庶民の助けとなったかがうかがいしれる。

日本人に愛されるサツマイモ

 江戸時代の後期になると、サツマイモについて書かれた書物も世に出まわるようになった。なかでも、1789(寛政元)年出版の『甘藷百珍』では、サツマイモを使った料理を、それぞれ尋常品(家庭的な品目)、奇品(珍しい見た目をしていて意表をつく品目)、妙品(奇品より味がさらに優れる品目)、絶品(極上級の品目)に分類し、123もの料理をランクごとに紹介している。そのなかの「絶品」のひとつとして、以下のような料理が紹介されている。

「田楽いも
 生にて擦し、薄板の筥(はこ)に入れ、筥倶(とも)に蒸熟、切て串にさし、そのまゝ未會をつけ、すこし火にかけ焼てよし。○未會(みそ)は木の芽醤(みそ)・山椒醤・山葵未會なと、好みによるべし」(『料理百珍集』〈原田信男校註・解説、八坂書房発行〉より)

 また1805(文化2)年に著された『包丁里山海見立相撲』では、鰻やすっぽんと並んで、最高評価である「横綱級」の食の一つとして、サツマイモ料理が挙げられている。江戸の風俗をつづった『絵本江戸風俗往来』(菊池貴一郎著、平凡社発行)にも「江戸市中町家のある土地にして、冬分に至れば焼芋店のあらぬ所はなし……」との記述がある。これらの書物を見ると、吉宗の時代以降、サツマイモがいかに庶民の食文化に深く根付いていたかがうかがえる。
 天災が続き動揺する社会、飢えに苦しむ民を見て、どうにかして彼らを救済し良い世の中にしたいと心から願った人々がいた。そして、そうした人々の手により広まったサツマイモ。
 現代では食卓のおかずやお菓子として、手軽に食べられるサツマイモだが、今後この秋の味覚を食する時には、偉大な先達の努力と功績を思い起こしてみてみるのも一興かもしれない。