近代日本を代表する文豪で、前の千円札の肖像としても親しまれてきた夏目漱石(1867~1916)。江戸時代末期の1867(慶応3)年、江戸の牛込馬場下(現在の東京都新宿区)に生まれた彼は、東京帝国大学(現在の東京大学)の講師等を経て38歳にして『吾輩は猫である』で小説家デビューを果たした。以後亡くなるまでの約10年間に、『坊っちゃん』『こころ』といった数々の名作を著している。
彼は、気難しい人物として知られているが、一方で大の甘党でもあった。その甘党ぶりは、「君のくれた菓子は僕が大概くつて仕舞つた。小供も食べました」(1905年4月13日付、弟子である森巻吉宛書簡)というような手紙が現在も多く残っているほどである。「あの」漱石が、子供そっちのけで、貰ったお菓子を食べてしまう姿が目に浮かび、なんともおかしみがある。
そんな漱石は、数ある甘味の中でも特にようかんを愛したという。妻・鏡子の口述による『漱石の思ひ出』(岩波書店)に、こんなエピソードがある。
ある日のこと、胃の悪い漱石を気遣った彼の妻は、食べ過ぎないように好物のようかんを隠した。すると漱石は、いつもようかんが入っているはずの戸棚を必死に探し続けた。その様子を見かねた幼い娘が在り処を教えてやると、漱石は娘を大いに褒め、上機嫌でようかんを頬張った……。
偉大な文豪が、こよなく愛したようかん。それは一体いつ、どのようにして登場したのであろうか。
現在、全国各地にさまざまな種類で愛され続ける「ようかん」。漢字で書くと「羊羹」となる。羹(あつもの)とは、肉や魚などの具を入れたスープのこと。その字の通り、羊羹とはもともと古代中国で食された羊の肉を入れたスープを指していた。その羮が、日本には禅僧によって奈良朝以前に伝えられていたことを、歴史書『古事記』(712年成立)から読み取ることができる。鎌倉時代には武家社会を中心に広まることになるが、肉食は禅宗の戒律により禁じられていたため、肉の代わりに小麦や小豆を煉って蒸し、汁に浮かべた見立て料理へと形を変えていった。それが時とともに茶会の点心(食事がわりにとる間食)となり、蒸し物である具に甘葛を加えたお茶菓子として饗されるようになった。これが、今に伝わる蒸しようかんの原形と言われている。
江戸時代になると、諸外国からの輸入や、薩摩から製糖技術がもたらされたことにより、砂糖は庶民に身近なものとなる。それに伴い、菓子が現在のような嗜好品として一般にも手に入るようになった。そして18世紀の末頃、それまでの蒸しようかんに加えて煉りようかんが登場した。
蒸しようかんは葛粉と小麦粉や小豆などを混ぜて蒸したものであった。一方、煉りようかんは寒天と砂糖を煮溶かし、小豆などを入れて煉りあわせ木箱に流し固めてつくる。しかしながら、その頃の砂糖はまだ高価だったため、当時の生活風俗を記した『守貞漫稿』(1853年成立)によると、煉りようかんは蒸しようかんの二倍の価格で販売されていたという。それでも、煉りようかんの人気は絶大だった。菓子舗船橋屋の主人が記した『菓子話船橋』(1841年発行)には、1日で800~1000棹の売り上げがあったとの記録がある。『南総里見八犬伝』の作者として知られる滝沢馬琴(1767~1848)の日記にも、贈答品として煉りようかんが度々登場している。こうしてようかんは、嗜好品として確固たる地位を築いていった。
ちなみに、ようかんの形状については、室町期の文献『言継卿記』(1544年)や『多聞院日記』(1593年)に「ようかん一包」「ようかん一籠」などの記述があるが、詳細は記されていない。それが江戸時代の図説百科事典『和漢三才図会』(1712年成立)に描かれた図からわかるように、江戸時代には現在のような竹皮包みの直方体の形状になっていたと考えられる。
では漱石の、ようかんに対する思いとはどのようなものであったのだろうか。彼の作品には、自身が好む甘味の記述が多く見受けられる。その中でも、ようかんには格別な思い入れがあるようで、『草枕』ではこう語られている。
「……余は凡ての菓子のうちで尤も羊羹が好だ。(中略)あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉と蝋石の雑種の様で、甚だ見て気持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れた様につやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる……」(夏目漱石『草枕』より)
ようかんはお菓子にとどまらない一個の「美術品」であるとし、色調や肌合いなど、ようかんに対する賛美の言葉が並んでいる。それだけではなく、ようかんをより際立たせる取り合わせの妙にまで言は及ぶ。古来より名品として珍重される美しい青磁の器こそ、ようかんの魅力をより強く引き立てると漱石は記している。舌で味わうのはもちろんのこと、目でも味わい楽しむ。その詳細な記述からは、漱石の甘味への愛情がうかがえる。
漱石は『吾輩は猫である』で、上等なお菓子として、東京は本郷にあった老舗のようかんを登場させている。本郷に暮らした漱石は、ひいきの味を求め幾度も通ったのであろう。世に賞賛される名著を遺した漱石。執筆の途中で、ようかんで息抜きすることもあったのかもしれない。