第10回 武田信玄とほうとう ~甲斐武田軍を支えた郷土食

甲斐の虎と「ほうとう」

 山国の冬は厳しく寒い。この季節、甲州地方の家庭では、よく「ほうとう」が食べられる。ほうとうとは、うどんのような麺を平らに伸ばし、野菜などの食材と一緒に味噌仕立ての汁で煮込んだ郷土料理である。甲州地方を中心として古くから親しまれるほうとうは、農林水産省主催のもと、日本を代表する郷土料理を選定した「農山漁村の郷土料理百選」にも選ばれており、長く人々に愛されている。
 ほうとうは、かつてこの地域一帯を支配し「甲斐の虎」と呼ばれた戦国武将・武田信玄(1521~1573)と関わりがあるといわれている。風林火山の旗のもと次々と周辺諸国を従え、甲斐武田家の最盛期を築いた信玄。現代まで伝わる郷土料理・ほうとうと信玄には、どのような関係があったのだろうか。

武田信玄肖像(山梨県立博物館 提供)

戦国の驍将・武田信玄

 武田信玄は1521(大永元)年、甲斐国(現在の山梨県)守護である父・信虎(1494~1574)の嫡男として生まれた。幼名を太郎といい、16歳で時の将軍・足利義晴(1511~1550)から一字を貰い晴信と名乗った。よく知られる信玄という名は、後年出家した際の名である。
 初陣から見事な軍略を見せ手柄をたてた信玄は、21歳の時、悪政を布く父を家臣と協力し国外へ追放、自らが武田家の当主となった。以降、精強な騎馬隊を率い優れた軍略で信濃国(現在の長野県)など周辺国を攻略していく。領土を拡張し続ける信玄は、やがて、越後(現在の新潟県)を根拠地とする長尾景虎(1530~1578、のちの上杉謙信)と川中島(現在の長野県長野市)で激突、「川中島合戦」として今日まで語り継がれる激戦を5回にわたって繰り広げた。
 その後も駿河や遠江(ともに現在の静岡県)へと侵攻し、1572(元亀3)年には、徳川家康(1543~1616)軍と援軍に駆けつけた織田軍を三方ヶ原(現在の静岡県浜松市)で撃退。上洛のため京都を目指すが、その途上、伊那郡駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)にて53歳で病死する。信玄の死により武田軍は本国に帰還せざるをえなくなり、次の当主・勝頼(1546~1582)の時代を迎えることになる。
 信玄は幼少より神仏への強い信仰心を持っており、臨済宗の高僧たちを甲斐へ招いて禅学を学んだ。その一方で兵法をよく学び、とくに古代中国の兵法家・孫子が著した軍事書『孫子』に深く通じていた。そこから「其(そ)の疾(はや)きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」という用兵の在り方を表した一節を抜き出し、彼自身の旗印「風林火山」として用いたことはよく知られている。また「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」とあるように、家臣をはじめ「人」を重んじた信玄。そうした姿勢が多くの優れた人材を惹きつけ、常勝軍団を支える優秀な家臣団を生むこととなった。

信玄の研究に欠かせない史料『甲陽軍鑑』。武田家に関連する人物や事績の紹介から、本文に見られるような信玄の軍学、人柄にまつわるエピソードなどの記述があり、戦国武将・信玄の姿を知ることができる。作者は信玄に仕えた武将・高坂昌信とされている。史料としての正確性には一部懐疑的な声もありさまざまな議論がなされるが、近年は再評価の動きも見られる。(山梨県立博物館 提供)

 一方で信玄は、軍事だけの人物ではなかった。金山開発による甲州金の鋳造や度量衡の統一、「信玄堤」に代表される大規模な治水事業の整備や、領国経営の概略をまとめた「甲州法度之次第」と呼ばれる分国法の制定など、統治者としても優れた手腕を発揮している。俗に戦国最強ともいわれる武田軍団を支えていたのは、文武に辣腕を振るった信玄の存在が大きかったのである。

生き残りに欠かせなかった郷土食

 では、その信玄とほうとうとの繋がりを見ていきたい。
 「ほうとう」という名の起こりは、奈良時代に中国より入ってきた「はくたく」の音が変化したものといわれる。はくたくとは、小麦粉を手でこね細長く伸ばし、それを手頃な長さに切った後に煮て食するものであったという。平安時代の辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、当時の貴族の宴会で用いられた食の中に「餝飩(ほうとん)」の名が見られる。また、平安後期に成立した『枕草子』内でも「はうたうまいらせむ(ほうとうを差し上げよう)」と書かれている。平安期には、上層階級の人々が楽しむ料理、という位置づけであったのかもしれない。
 室町時代の古辞書『頓要集(とんようしゅう)』でも「ハウタウ」との記述が確認できることから、この頃には徐々に世間に広まっていたと考えられる。
 また、信玄の家臣・高井高白斎が記した戦国時代の記録史料『高白斎記』には、信玄の同盟者であった駿河の大名・今川義元(1519~1560)が娘を輿入れさせる際に、家臣に麺を振る舞ったとする記録が見える。父・信虎の誕生から信玄の時代までの武田氏の出来事を日記調に書きつづった同書は、当時の陣中における食生活といった部分にも触れている。それによると、日常的にしっかりとした食事をとることが難しい戦地では、信玄は鶉(うずら)など現地の動物を捕らえ食していたこともあったという。
 兵糧は運搬量に限りがあり、保存性や携帯性など実用的な要素が特に重視された。これは戦の勝敗を左右しかねない問題であったため、大名は自らの領国にあわせた陣中食の開発に工夫を凝らした。「平和な時も、踊りや宴会、狩猟といったものにうつつを抜かして備えを怠ってはならない」(『甲州法度之次第』)と語るように、平時においても合戦に備えて準備をしていた信玄は、さぞ頭を悩ませたことであろう。甲斐の特性を活かした優れた陣中食をつくれないものか、と。

今も郷土で愛されるほうとうは、季節の野菜をふんだんに入れてつくられるが、カボチャ入りのものは特に好まれる。砂糖が貴重であった時代には、甘味を加える食材は重宝されていた。山梨の一部では、物事が上手くいった時に「うまいもんだよ、カボチャのほうとう」といった言葉が使われている。

 信玄の領国である甲斐は山地に囲まれた山国で、米をつくるのに必要な水田が他国よりも少なかった。そのため、この地域では山地をきりひらいて畑をつくるようになり、大豆や小麦、そばなどの粉食を中心とした文化が発達していった。加えて、米を炊いておかずをそろえるより、手軽に調理ができるほうとうは、まさに理に適った陣中食となりうる。そう考えた信玄が、陣中食として奨励するようになった、のではないだろうか。
 信玄はその生涯で70以上の合戦に臨んだといわれるが、はっきりとした敗戦は数えるほどしかない。残りは勝利もしくは引き分けており、その引き分けた相手も、後日再戦した際に破っていることが多い。そのあまりの強さに、三方ヶ原で敗れた徳川家康は、信玄の軍団編成や領国経営を大いに参考とし、のちに天下を獲っている。このことからも、信玄が、知勇を兼ね備えた非凡な武将であったことがうかがい知れる。今も世に名高い武田軍の強さは、卓越した信玄自身の用兵と、それを忠実に実行し敵を打ち破った麾下の働きが大きい。そして、その軍団を支えたのが、甲斐という風土が生んだ優れた陣中食であったのである。

時を経て今に伝わる「ほうとう」

 さて、江戸期になると、ほうとうをはじめとした麺類は、さらに庶民的な食として広まっていった。甲府勤番士が当時の風俗をまとめた『裏見寒話』(江戸中期成立)や、修行僧・野田泉光院(1756~1835)が諸国を巡った際の道中記『日本九峯修行日記』(江戸後期成立)でも、甲斐名物のほうとうを食べた、とする一文が見受けられる。
 その後の明治・大正・昭和と現代に至るまで、ほうとうは変わらず愛され続け、甲州地方の家庭では食卓に並ぶことも多い。
 今も、信玄の地元・山梨では、信玄を由来としたほうとうを、多くの店舗で扱っている。観光資源としての側面もあるとはいえ、信玄と、風土が生んだ郷土食に対する、人々の深い思いが感じられる。その土地に根付く食文化とともに、戦国屈指の名将は、人々の誇りとなって生き続けているのである。