第12回 田沼意次とてんぷら ~まちづくり政策が広めたてんぷら屋台

江戸っ子が愛した庶民の味・てんぷら

 季節の魚介や野菜を、カラッと揚がった衣の食感とともに楽しめるてんぷら。現在のようなてんぷらが広まったのは、江戸時代のこと。世界屈指の大都市として賑わう江戸の町には、てんぷらを商う屋台が多く見られ、庶民を中心に親しまれた。
 その頃、幕政を主導したのが、老中・田沼意次(1719~1788)であった。これまで、田沼意次といえば負のイメージで語られることも多かった。しかし近年は「稀代の改革者」といったプラスの側面がクローズアップされ、再評価が進む人物でもある。
 庶民の味・てんぷらの屋台と、政権屈指の権力者。一見つながりの無さそうな両者だが、てんぷら屋台が江戸に流行した背景には、意次の影響があったともいわれている。

田沼意次肖像(牧之原市相良史料館 提供)

賛否両論の改革者・田沼意次

 1719(享保4)年に、8代将軍・徳川吉宗(1684~1751)に仕える幕臣・田沼意行(1686~1735)の子として生まれた意次は、父の知行を継ぎ、のちに9代将軍になる家重(1711~1761)の小姓を務めた。家重、そして次の将軍・家治(1737~1786)の側に仕えた意次は、賢人と評され出世を重ね、やがて国政を統括する老中にまで登りつめる。
 彼の特徴は、執り行った積極的な近代型政治にあった。当時、貨幣経済の発達とともに、年貢の増徴を中心としたそれまでの政策は行き詰まりを見せ、幕府は財政難に陥っていた。そこで意次は、幕府の財政再建のため、利潤追求を念頭においた数々の政策を打ち出す。
 同業者組合である「株仲間」を奨励し商人を保護、彼らから冥加金を徴収したり、新貨の鋳造によって通貨制度を改革し、長崎貿易を奨励したりするなど活発な財政改革を行った。また、身分に関係なく平賀源内(1728~1779)などの有能な人々を広く登用し、ブレーンを形成、彼らから貪欲に知識を吸収し政策に活かした。
 しかし幕府が徐々に財政を立て直す一方で、飢饉への対応のまずさから農村荒廃を招いたほか、賄賂政治が横行するといった負の一面も見られるようになる。
 意次の政策は、強引で不安定な面もあり、全てが成功したわけではないが、時代の趨勢を見据え、幕府の財政基盤を確立した。意次の政策が奏功し、幕府の備蓄金は5代将軍綱吉以来の額を記録したともいわれ、優れた才覚で確かな功績を残したことは間違いない。

写真の左端がてんぷら屋台。てんぷらは屋台で食べるものとされ、庶民が集まる屋台では簡単に食べられるが、豪商や上流の武士が利用する高級料亭では食べられないという、何とも不思議な事態が見られるようになった。当時の風俗を描く『近世職人尽絵詞』(鍬形恵斎著、1804年刊)には、頭巾を被り、庶民に混じりながら忍んで屋台に通う武士の姿が描かれており、身分を問わないてんぷら人気がうかがえる。(東京国立博物館提供)

江戸時代に確立した現在のてんぷら

 てんぷらの語源については、かねてより様々な説がとりあげられてきたが、現在は一般的に、ポルトガル語で調味料を意味する「tempero」等の外来語が変化したもの、とされている。
 日本でも、油で揚げるという手法自体は、精進料理のひとつとして既に中国より伝来し確立されていた。そこに、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易(16~17世紀)によって、フリッターのような揚げ物料理が伝えられた。それらをもとに、18世紀の江戸で、穴子や海老など魚介類に小麦粉と水をつけ、油で揚げるてんぷらが広まったと考えられる。
 現在のような衣揚げのてんぷらの調理法は、1748(寛延元)年発行の料理書『歌仙の組糸』等に見ることができる。同書には「てんぷらは何魚にてもうんとん(うどん)の粉まぶして油にて揚る也…」と、具体的な調理法が記述されており、今日のようなてんぷらが一般的になったのは、この頃とされる。

江戸時代の百科事典である『守貞漫稿』によると、江戸時代のてんぷらの種は、主にあなごや芝海老、こはだ、貝柱、するめであったとされる。江戸前の魚介類を幅広く利用し、豊富なメニューを揃えていた点も、人気の要因であったのかもしれない。

てんぷらと意次の意外な関係

 江戸では、長屋など木造の建築物が隙間無く並び、度々大規模な火災が発生し甚大な被害を出していた。そのため、江戸の町にはあちこちに延焼を防ぐための「火除地(ひよけち)」がつくられた。火除地には、芝居や見世物などを行う小屋が建てられ、庶民が集う盛り場へと発展していった。現在の上野、秋葉原、両国などがそれにあたる。
 そして、江戸後期になると、盛り場を中心に食べ物を売る屋台が数多く登場し、その場で客が食べるという、今でいう「ファストフード」の食文化が発達した。その代表的なものが、そば、すし、てんぷらであった。特にてんぷらは1串4文(当時のそば1杯の4分の1)程度の低価格で売られており、庶民でも気軽に食べられるものであった。
 実は、てんぷらが屋台で売られるようになった理由として、こんな逸話がある。意次が屋内でのてんぷらの調理・営業を禁止した、というのだ。意次は火災被害にはとくに強い危機意識を持っており、対策として、自領内でも茅葺きの屋根を瓦に替えさせるなど、類焼を防ぐ努力をしている。てんぷら料理は火と油を使った高温での調理のため、火事の原因となりやすい。そのため禁令を出した、というのだが、この法令がいつ出されたものか、意次自身が出したものかについて、正確なところはわかっていない。
 意次は消費拡大政策を推し進め、その前後の政権とは違って芝居小屋や屋台などのある盛り場を厳しく取り締まろうとはしなかった。こうした庶民の楽しみから生まれる消費を経済活性化のツールとして見ていたのかもしれない。庶民に親しまれた屋台のてんぷらが江戸を代表する食べ物となった一因として、意次がとった消費拡大政策があげられるともいえるであろう。
 江戸時代末期から明治時代にかけて、高級食材を取り入れたものなどが登場し、てんぷらは座敷でも食されるようになった。江戸っ子が愛した庶民の味覚であったてんぷらは、時代とともにその食文化の幅を広げていったのである。