有名な「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の句など、俳句や短歌、随筆ほか多分野で優れた作品を生み出した正岡子規(1867~1902)。伊予国温泉郡藤原新町(現在の愛媛県松山市花園町)に松山藩士の長男として生まれた彼は、少年時代から漢詩や書画に親しみ、文豪・夏目漱石(1867~1916)らと交流。近代を代表する文学者といわれるまでになる。やがて結核を患い、その短い生涯のうち晩年の7年間は病床で過ごした。
そんな子規が、病に蝕まれながらも執筆し続けた最後の作品『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』の中で、「自分の見た事のないもので、一寸見たいと思ふ物」として書き残したもののひとつが「ビヤホール」であった―。
子規が生きた明治時代の日本は、西洋の文物が流入し急速に近代化がなされていった。今では私たちの生活に馴染み深いビール、そしてそれを楽しむビアホールもこの頃に広まっていったものである。稀代の文人が病床からビールに馳せた想いとは、どのようなものであったのだろうか。
日本人がビールを飲んだ記録が初めて現れるのは、江戸時代中期のこと。8代将軍・徳川吉宗(1684~1751)によって洋書の輸入が解禁され、文献を通してビールに関する知識が伝わるようになった。阿蘭陀(オランダ)通詞(当時の通訳兼商務官)がオランダ人から得た情報を中心に記した『和蘭問答』(1724年発行)には、「酒は(中略)また麦にても作り申候。麦酒給見申候処、殊の外悪敷物にて何のあぢはひも無御座候。名をビイルと申候」とあり、異国の味に戸惑う日本人の様子がうかがえる。
19世紀半ば、アメリカのペリーが来航した際も、その献上品にはビールが含まれていたという。1865(慶應元)年、諸外国の事情に通じ近代思想の啓蒙家として活躍していた福澤諭吉(1834~1901)は、著書の中で「<ビィール>と云ふ酒あり。是は麦酒にて、其味至て苦けれど、胸膈を開く為に妙なり。亦人々の性分に由り、其苦き味を賞翫して飲む人も多し」とビールを紹介している。このようにして、異国の酒・ビールの存在は徐々に世に知られるようになっていった。
開国以降はイギリスやドイツ、アメリカなど各国のビールが続々と輸入されたが、高価であったこともあり、客層は限られていた。明治の初期は輸入ビールが市場の大部分を占めていたが、国内にも徐々にビール醸造所が建ちはじめ、やがて国産ビールが主流となっていく。
明治20年代になると、東京の小売り酒店でビールを販売するようになる。とはいえ、どこの酒屋でも手に入るというものではなかった。新聞も、どこの酒屋に行けばビールを買えるかという案内を載せていた程で、一般家庭で消費されることはほとんどなかった。
1899(明治32)年、東京・新橋の南金六町(現在の銀座)に初のビアホールが誕生すると、一杯売りのビール専門店として大いに繁盛した。ビールがまだ高価であったこの時代、一杯5~10銭で手軽に飲めるビアホールは大衆に歓迎され大ブームとなる。これ以降、ビールは庶民の食生活に少しずつ浸透していき、その後ビアホールも全国に広がっていった。
ビアホールが大盛況であった1902(明治35)年、既に子規は病状の悪化により外出もままならない状態であった。日々を自宅で過ごす彼の情報源は、毎日の新聞や、病床を訪れる来客たちの話である。近代化していく東京の様子を人々から聞きながら、子規はさまざまに想像を膨らませていたことだろう。そうして書き記したのが、冒頭の一節であった。
晩年期の随筆『墨汁一滴』において、その日に食べたものやいただき物を細かく記していたり、西洋料理や中華料理を取り寄せてみたりと、子規は食に対する関心が非常に強かったといわれる。病床で聞いたビアホールの話にも、大いに興味をひかれただろう。
子規の作品や日記の中に、ビールを飲んだという直接の記述は見あたらない。しかし、彼は「ビール苦く葡萄酒渋し薔薇の花」という句を、まだ病状が悪化する前に残している。食に強い関心を持っていた彼のことだから、実際に飲んだビールとワインを句の題材にしたのではないだろうか。病床にあっても、かつて自身が味わったビールの味を思い起こしながら、噂にきく「ビヤホール」をさまざまに想像していたことだろう。おそらく、身動きもままならない身体だからこそ、大勢で集まってビールを楽しむ新しい大衆酒場に人一倍の憧れを抱いていたのではないだろうか。
子規が病床から想いを馳せたビアホール。仮に、実際に訪れることができたとしたら、稀代の文学者は、その様子をどのように表現したのであろうか。