現在は「こどもの日」として国民の祝日になっている5月5日の端午の節句には、縁起物として粽(ちまき)が食卓に並ぶ光景がよく見られる。粽は、餅や米を笹などで巻き、い草などで縛って蒸した料理で、平安時代に中国から伝わったとされる。材料や形状など、地域によって様々な種類があるが、鹿児島県はじめ南九州地方では、「あくまき」と呼ばれる粽が一般的である。
その名の通り灰汁(あく)を使用してつくられるのが特徴で、灰汁に浸した餅米を竹の皮で包みさらに灰汁で煮込んだものに、砂糖やきな粉、黒蜜などをかけて食べる。端午の節句に限らず、もともとは1年を通じて食べられる郷土食である。
そのあくまきが根付いた鹿児島県はかつて薩摩国と呼ばれており、この地を鎌倉時代から明治時代に至るまで治めていたのが島津家であった。「島津に暗君なし」といわれる歴代当主の中でも、戦乱の時代に生きた島津義弘(1535~1619)は島津の武名を天下に轟かせた人物として知られ、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いにおける武勇伝は、今なお人々の語り草となっている。
こうした武功の背景には、郷土食であるあくまきの存在が一役買っていたと、地元では伝えられてきた。今に伝わる薩摩隼人の活躍とあくまきには、どのようなつながりがあったのであろうか。
まず、あくまきのもととなった粽のルーツを見ていきたい。 粽は古代中国が発祥とされ、国を憂えて川に身を投げた戦国時代の政治家・屈原(紀元前343~278)を人々が悼み、命日の5月5日に米を入れた竹筒を供養物としてつくったのが始まりといわれる。晋の将軍・周処が記した『風土記』(280年頃成立)にも「菰(こも)の葉で黍(きび)米を包み、濃い灰汁でこれを煮て軟らかくし、五月五日と夏至の日に食す」と粽に関する記述があり、早い段階から食文化として定着していたことがうかがえる。以降、時代とともに、地域によって様々なバリエーションが増えていったことが、数々の史料に見える。
日本の史料では、平安中期の辞書『倭名類聚鈔』に粽の記述が見られる。「和名知萬木(ちまき)」という項目があり、「粽は、菰の葉で米を包み、灰汁をもってこれを煮て、爛熟せしむるものなり。五月五日にこれを喰う」と記されている。おそらく、この頃中国より伝わったのであろう。もともとの粽は、このように米を植物の皮で包み灰汁で煮てつくったもので、保存食と見られていたようだ。
江戸時代の食物全般について記した『本朝食鑑』(1695年成立)には、当時の代表的な粽が数種類紹介されている。その中には、団子状にした米を笹の葉で包んだ、現在の和菓子屋でつくられる粽に近いものもあり、当初の保存食から、時代が下るとともに菓子や軽食としても食されていたようだ。
次に、薩摩の粽、あくまきのつくり方は、おおよそ次のようなものである。まず、堅木を燃やした灰でつくった灰汁に餅米を一晩浸す。その餅米の水気を切ったら、竹の皮に包み帯状に縛る。これを釜に入れ灰汁で数時間煮ると、ようやく出来上がる。灰汁の風味に特徴があり、現在では甘味と一緒に食べることが多いが、当時は味噌を付けていたともいわれる。
では、あくまきはいつ頃から薩摩でつくられるようになったのか。その起源を明確に述べる史料は今のところ見つかっていないが、義弘が兵糧食として携帯したのが起源ではないかという伝承が、地元・鹿児島に残されている。
島津家はその長い歴史の中で、常に優れた英傑を世に輩出し続けてきた。その中興の祖といわれる島津忠良(1493~1568)の孫として義弘は誕生した。4人兄弟の次男であった義弘は、兄の義久(1533~1611)、弟の歳久(1537~1592)・家久(1547~1587)といった兄弟たちと同じく、幼い頃より勇敢さと利発さを兼ね備え、将来を嘱望されたという。
義弘の初陣は19歳の時であった。大隅(現在の鹿児島県東部)西部の諸豪族を相手に父・貴久(1514~1571)の指揮のもと大戦果をあげた義弘は、その時の様子を後に自著『惟新公自記』の中で「陣中の軍兵を率い、足を止めず駆け入りて方々に追い散らし、数千の敵を討ち滅ぼし、大利を得た」と記している。
やがて家督を継いだ兄・義久の補佐役となった義弘は、九州全土の制圧に乗り出す。時には総大将として、伊東氏、阿蘇氏、大友氏など九州各地の諸勢力を次々と打ち破り、1586(天正14)年には豊後(現在の大分県)にまで攻め上った。しかしここで、全国統一を目論む豊臣秀吉(1537~1598)が九州に侵攻してくる。20万ともいわれる圧倒的な兵力で迫る秀吉軍に、島津家は衆寡敵せず降伏。以降は秀吉に臣従するが、島津の武名を知らしめる舞台は、この後にこそ用意されていた。秀吉による二度の朝鮮出兵と、関ヶ原の戦いである。
日本国内の統一を果たした秀吉は、1592(天正20・文禄元)年、1596(文禄4・慶長元)年と二度にわたり朝鮮への出兵を強行する。義弘はそのいずれにも参戦し、多くの合戦で奮戦した。1598(慶長3)年に秀吉が死ぬと、日本軍は朝鮮から撤退を始める。その際も島津軍は7,000余りの兵で数万といわれる明・朝鮮の連合軍を退けた泗川の戦いなどで、味方の撤退を大いに助けた。鬼神の如き活躍を見せる島津軍の戦いぶりは、現地で「鬼石曼子(鬼島津)」と呼ばれ恐れられたという。
帰国後まもなく、いずれも秀吉の家臣であった徳川家康(1543~1616)と石田三成(1560~1600)が衝突、全国の大名を東西の2軍に分けた関ヶ原の戦いへ発展した。当初互角と思われた形勢は、西軍に裏切りが続出したことから一気に東軍に傾く。義弘率いる島津軍は、遠国ということもありこの戦いに満足な兵を動員できなかった。やがて西への退却路をふさがれ孤立した島津軍は、わずかに手勢1,500名ながら、決死の覚悟で敵陣に突撃し、突破を図る。
彼らは主君・義弘を守るため、何人かが留まり追撃の足止めをし、全滅すると次の足止め部隊が残るという、捨て身の戦法をとった。結果、家老や将兵など大半が討ち死にしたが、追手側にも大きな打撃を与え、義弘は脱出に成功した。島津軍の勇猛さを表すこの脱出劇は、東軍諸将からも称賛されたといわれる。
このように、後世まで伝わる武名を残した義弘率いる島津軍だが、上記の朝鮮出兵、そして関ヶ原の戦いには、兵糧としてあくまきを携帯していたと伝えられている。
兵糧食に何より求められるのは、保存性である。表面を包む竹の皮に含まれるフラボノイド色素には抗菌性があるといわれ、長時間煮込むことによる滅菌作用という点でも、あくまきは兵糧に適していた。また、調理をせずにそのまま食べられることからも、長期の滞陣に欠かせない兵糧食としてまさに理想的な食料であったといえるだろう。長期の滞陣に堪える安定した食事と、優れた指揮官。そして勇猛な薩摩隼人の力が結集したからこそ、数々の武功は成し遂げられたのだ。義弘が戦術家として、あくまきが兵糧食として、ともに優れていたことが、義弘とあくまきの起源を結びつける伝承につながったのかもしれない。
その義弘の活躍から時が流れた明治時代。薩摩出身の西郷隆盛(1827~1877)は、日本最後の内戦となった1877(明治10)年の西南戦争に臨む際、兵糧としてあくまきを用いたといわれている。薩摩とあくまきの深いつながりは脈々と受け継がれ、現在も郷土食として親しまれているのである。