第18回 日本の学生を教導したクラーク博士とカレーライス

クラークとカレーライスの関わり

 明治時代に欧州から伝えられたとされるカレーライス。以降、日本人の食生活の変化にともない、様々なバリエーションが生まれ普及してきた。現在では学校給食にも頻繁に登場し、日本の食卓を飾る人気メニューのひとつとなっている。
 1876(明治9)年、明治政府による殖産興業(近代化のための諸政策)の一環として日本に招かれ、札幌農学校(現在の北海道大学)に着任したウイリアム・スミス・クラーク博士(1826~1886)。「Boys, be ambitious!(少年よ、大志を抱け)」の名言でも有名な博士は、実は日本のカレーライスと関わりのある人物といわれている。
 彼と日本との繋がり、そして日本のカレーライスとの関係性はどのようなものであったのか。その歴史を紐解いていきたい。

ウイリアム・スミス・クラーク肖像
(北海道大学植物園 提供)

後世まで伝わるクラークの教え

 1826年にアメリカのマサチューセッツ州に生まれたクラークは、ドイツに留学し学位を得たのち帰国、南北戦争(1861~1865年、アメリカの内戦)の際には従軍し大佐に昇進している。その後は郷里に州立大学を招致し、自ら学長として後進を育成するなど、高名な教育者であった。
 一方、明治初期、北海道開拓を司る行政機関として置かれていた開拓使では、1876(明治9)年、北海道における新たな指導者を育成し、札幌に高等農業を専門とした学校を設立することとなった。そこで開拓使は、高名な教育者であったクラークに白羽の矢を立て北海道に招聘した。1年間の長期休暇を利用し来日したクラークは、教頭として学校の設立に尽力し、キリスト教に基づいた教育を施しながら農学校の管理運営などの教育体系も整えた。
 彼の教育方針をあらわす逸話として、次のようなものがある。寄宿舎を開舎することになり、その舎則をどうするかという話が出た。すると彼は、「ただBe gentleman(紳士たれ)で充分だ」と答えたという。「凡ての規則を重んずるが、規則でやるのでなく、自己の良心に従ってやる」とする自主自立の精神は、彼が直接指導した第1期の学生達だけではなく、それ以降の代にも継承されている。
 また、日本で初めて兵式体操を正科に取り入れ体育を奨励し、農学校園を設計して今日の北海道酪農の基礎を築いたことでも知られており、彼が残した名言と功績は、今日まで語り継がれている。

『西洋料理通』(東京都立図書館 提供)
横浜に来たイギリス人が西洋料理をつくらせる際に雇人に与えた資料をもとに、仮名垣魯文が著したものと言われる。日本の西洋料理の原点ともいえる貴重な資料である

欧州からもたらされたカレー

 では、次に日本とカレーの繋がりを見ていこう。
 カレーはインド発祥の料理ではあるが、もともとカレーという呼称はインドでは使われていなかった。かつてインドを支配したイギリス人が、香辛料を使用したインドの煮込み料理を総称してカレーと呼び広めたと言われている。その際に、現在のカレー粉にあたる、イギリス人向けに改良したカレーがつくられ、それがイギリス本土から欧州に広がって今日のような西洋料理風のものが形づくられた。その後、明治時代には日本にも流入することになる。
 当時の文献を見ると、例えば1863(文久3)年、遣欧使節であった三宅秀(1848~1938)が、船中でインド人がカレーを食す場面を目撃し日記に残している。そこには「飯の上に唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻き回して手づかみで食す。至って汚き人物の物なり」と書いていることから、当時の日本人の食文化からすると、非常に奇異な物に映ったようだ。

日本にカレーが登場してしばらくは、主にイギリスからの輸入品のカレー粉が市場の多くを占めていた。1920年代になると純国産のカレー粉が登場し、より日本人の味覚に合ったものへと姿を変えていった

 しかし、外国から様々な食文化が急速に持ち込まれた明治時代以降には、徐々に浸透していったようで、1872(明治5)年、新聞記者の仮名垣魯文の書いた『西洋料理通』にカレーのつくり方を紹介する記述が登場している。それによると、この頃のカレーの材料はバターで炒めたネギと肉であり、カレー粉を小麦粉や塩と混ぜ合わせ、刻んだ肉と一緒に煮てつくっていたようだ。
 また、調理が簡単で、かつ具だくさんであることから栄養の面でも優れているカレーは、日本海軍の軍隊食としても採用されている。こうした背景もあり、時代とともに日本人の食生活に自然と馴染んでいった。

カレー伝承の実状

 では、クラークとカレーの間には、どのような繋がりがあったのか。例えば、彼が日本の学生達にカレー食を奨励した、というような事実は実際にあったのであろうか。
 札幌農学校に残る当時の記録を探ってみると、当時、カレー粉を購入した記録は見られるものの、クラークとカレーの直接的な関係性を示唆するような記述は見つけることができない。
 また、カレー自体も、北海道立文書館発行の『赤れんが(昭和59年1月号)』によると、「開拓史の東京出張所では、1872年に既に御雇い外国人の食事のために、コーヒーや紅茶、〈タ(ラ)イスカレー〉を用意していたとの記録がある」とされることから、クラークの着任以前より食されていたと考えられるのだ。
 一方で、クラーク在任当時に学校内でカレーが食されていたのは確かなようで、同学の寄宿舎の歴史を書いた『恵迪寮史』には、「札幌農学校・札幌女学校等はパン、洋食をもって常食と定め、東京より札幌移転の時も男女学生分小麦粉七万三千斤を用意し米はライスカレーの外には用いるを禁じた位である」との記録がある。しかし、クラークが日本のカレー食に影響を与えたことを直接示す資料は、残念ながら確認することができないのが現状だ。
 明治時代になると、日本には諸外国から様々な文明・文化が流入した。このいわゆる「文明開化」によって制度や習慣に大きな変化がもたらされ、それは食に関しても例外ではなかった。
 短期間の在任ながら、学校の在り方を大きく変える優れた教えを日本の学生達に残したクラーク。そして、同時期に日本の食卓に登場し、やがて定番食となっていったカレー。これらがそれぞれ文明開化の象徴として結びつけられ、やがて様々な憶測話が人々に語られるようになった、というのが実際の所なのではないだろうか。