第19回 徳川頼宣と紀州みかん ~名君が築いた名産地・紀州

紀州みかんを広めた名君

 数ある果物の中でも、日本人の食生活に特に馴染み深いものとして、みかんがある。みかんは江戸時代に国内各地に広まり、多くの人々に食されるようになったが、古くからその名産地として知られているのが紀州(現在の和歌山県と三重県周辺)である。現在、みかんと言えば一般的に温州みかんを指し、和歌山県の有田が名産地として有名である。しかし、江戸時代まで主流であったのは、温州みかんより小さく種のある紀州みかん(小みかんとも呼ばれる)であった。
 紀州において、みかんの栽培が盛んになったのは17世紀である。そして、その当時紀州を治めていたのが、後に「御三家」と呼ばれる紀州徳川家の祖、和歌山藩主の徳川頼宣(1602~1671)であった。徳川家康の十男として生まれた頼宣は、善政を布いた名君として現在まで語り継がれる一方で、実は紀州みかんの普及とも深い繋がりがある人物といわれている。

徳川頼宣肖像(和歌山県立博物館 提供)

 今回は紀州を中心として、日本人に馴染みの深いみかんと、その歴史について迫っていきたい。

大陸から流入した小みかん

 柑橘類の原生地はインドや東南アジア、中国など広域にわたるが、中国では紀元前1000年頃に書かれた『詩経』に「柚(ゆず)」の記述が見られる。こうした果樹類は、中国大陸との交易により先進文化とともに日本にも伝来したものと考えられている。以降、大陸からの導入と育成、品種改良が繰り返されたようだ。
 小みかんの起源に関しては、12~13世紀に、中国の浙江省から交易港として栄えていた肥後国八代(現在の熊本県八代市)に伝わったとする説が有力である。そして肥後を中心に鹿児島や大分周辺で栽培が行われていたものが、紀州の有田に伝来し植えられるようになった。江戸時代中期に書かれたみかんの歴史書『紀州蜜柑伝来記』にも、紀州の小みかんは土地に適して風味が比類なく、色香も他国よりも優れたことから村々に植え広まったとする記述が見られる。
 17世紀の初めには、紀州産のみかんは大坂や堺、伏見などに小舟を使って小規模ながら移出されていたようだ。その小みかんの栽培を奨励し、大々的な産業としたのが1619(元和5)年に和歌山藩主として入国した徳川頼宣であった。

『紀伊国名所図会』(和歌山県立博物館 提供)
江戸時代後期に成立した、紀伊国の地誌。収穫した実を選別し、籠に詰めて廻船に積み込むさまなど、紀州で収穫されたみかんが江戸に出荷されていく様子が図と文章で詳細に説明されている。

頼宣が形づくったみかん産業

 1602(慶長7)年に伏見で生まれた頼宣は、幼少期より文武に優れていたという。父である徳川家康(1543~1616)のもとで育てられ、兄の死に際して常陸水戸20万石を拝領した。1615(慶長20)年、大坂夏の陣の際には14歳で初陣を飾ったが、手柄を立てられなかったことを悔しがり家康を喜ばせたという。その後、紀伊和歌山藩55万石に転封され、藩主となった。
 城下町や職制、法令を整備する一方で地侍を保護し「難治の国」と言われた紀伊国をよく治めた頼宣は、その治政のなかで、「父母状」と呼ばれる触れ状を藩内に出している。これは親孝行の大切さや法律を守ること、正直を第一として家業に専念することの大切さなどを記したもので、頼宣の統治方針を示すと同時に、やがて藩の民衆統制の規範ともなった。
 雑税を省き、殖産に励んだ頼宣であるが、このとき漆器(黒江塗)や保田紙などと並んで、特に力を入れたのが、みかん栽培の奨励であった。頼宣は、紀州産の小みかんを大いに気に入り、他品種とは異なる味の良さに目をつけると、領土内でのみかんの生産・開発に注力する。みかんに関しては税金を免除するなど、積極的に支援した。頼宣のこうした尽力によって、小みかんは紀州みかんとも呼ばれるようになるほど、紀州では小みかんが大規模な産業として定着していった。

生産地から江戸まで、船で運ばれていたみかん。現代とは違い輸送も困難で、紀州~江戸間は一ヵ月ほどの日数を必要とした。その間に腐ったり、品質が低下したりといったことのないように、石菖や山ももの葉で包んで運搬していたという。

 また、頼宣は当時発展を続けていた江戸での需要を見越し、紀州みかんの江戸への運搬・販売に取り組んだ。それは1634(寛永11)年頃のことで、有田郡滝川原村(現在の有田市宮原町)の滝川原藤兵衛が400籠ほどの紀州みかんを江戸に送っている。
 江戸には既に他の地域からもみかんが出荷されていたが、その中でも紀州みかんは高い評価を得ることとなった。当時の諸国名物などを記した俳諧書『毛吹草』にも、「古今ノ名物」として紀州のみかんが挙げられており、その味の評判は「風味ハ甘露ニ酸キ味ヲ兼黄金之色ニ紅ヲ交エ菓之形天地方円之図ヲ備ヘ国ニ越タル和国之珍菓不可有此上」と言われるほどであった。紀州の小みかんは、一籠半(一籠=約15kg)あたり一両で取引されていた。時代によって多少の差はあるものの、一両あれば一人が一年間で消費する一石分の米を買うことができたといわれ、高級な嗜好品であったことがわかる。
 それでも紀州みかんの需要は拡大し続け、1656(明暦2)年には年間5万籠に及ぶみかんが江戸に送られるようになり、1698(元禄11)年にはその出荷量は30万籠ほどになった。こうしてみかんは江戸を中心に普及していき、その名産地として紀州のみかん産業が形づくられていった。

紀州みかんから温州みかんへ

 この頃、紀州へは鹿児島を原産とする温州みかんも移入されていたようで、天保年間(1830~1844)に発行された『紀伊続風土記』には、紀州藩内で栽培されている果物として、その名前が挙げられている。江戸時代も後期になると、温州みかんは「甘酸相和す風味」「上品の柑橘は核無し」などとして、次第に人気を獲得していく。
 紀州はここでも素早く対応し、他県に先駆け大規模な生産・栽培を開始する。1881(明治14)年には東京神田の青果市場に出荷し、その味が評判となった。こうして紀州をはじめ各地で温州みかんの栽培が盛んになり、明治時代には近畿、九州、四国、中国地方でも栽培されるようになった。
 その味わいと、種がなく食べやすいという点が人々に好まれ、大正時代には小みかんに代わって温州みかんが主流となっていく。その温州みかんも、時代とともに様々に改良が加えられ、次々と高品質・早生品種が生まれている。しかし、みかん栽培に適した気候風土を持ち、長年にわたる栽培技術を蓄積してきた紀州は、変わらず名産地として在り続け、今日に至っている。
 みかんが、今日のように大衆食となった起点は江戸時代にある。時とともにみかんの品種も人々の嗜好も移り変わってきたが、変わらず支え続けてきたのが名産地紀州であった。その背景には、紀州にみかん栽培を根付かせ、大々的な産業にまで発展させた、名君の働きがあったのだ。