第20回 大久保彦左衛門と鰹節 ~三河武士も活用した健康食

天下のご意見番と鰹節

 日本人と鰹の関わりは古く、縄文時代の貝塚からも鰹の骨が発見されている。その鰹からつくられる鰹節もまた、貴重なタンパク源として古くから私たち日本人の食を支えてきた。  その鰹節と関連が深い人物が、江戸初期の旗本で「天下のご意見番」とも称される大久保忠教(1560~1639)である。講談では、通称の彦左衛門の名で親しまれ、3代将軍・家光にたびたび諫言をしたり、旗本以下の輿(こし)の使用が禁止された際には大だらいに乗って登城したりと、数々の逸話が語られている。
 その彦左衛門は晩年、徳川家とそれに仕えた大久保家の歴史をまとめ、自著『三河物語』に書き記した。そこでは、当時の武士の生活や食文化について記述がされており、彼が鰹節をことのほか重用していたことがわかる。
 今回は、三河(現在の愛知県)武士・大久保彦左衛門の生涯を通して、鰹節と日本人の食生活がどのように関わってきたのかを見ていきたい。

大久保彦左衛門肖像(長福寺 提供)

長寿の秘密は鰹節?

 三河の戦国大名・徳川家康(1543~1616)に仕える武家の八男として三河に生まれた彦左衛門は、兄・忠世(1532~1594)らとともに家康に仕え、各地を転戦し武功を挙げていく。1585(天正13)年の上田城攻め、1590(天正18)年の小田原攻めなどで活躍し、兄・忠世が小田原城主に任じられた際には彦左衛門も3,000石を与えられた。その後も関ヶ原合戦や大坂の陣など、徳川家の存亡を賭けた重要な合戦では、本陣を守る槍奉行として参戦している。家康没後も2代将軍・秀忠、3代・家光に仕えた彦左衛門は、晩年に生涯の記録として『三河物語』の執筆に取り組む。
 上中下の3巻からなる同書には、徳川家の下での数々の戦の記録や、太平の世になって以降、彦左衛門が抱えていた不満や想いといったものが記されている。戦国が終焉を迎え徳川家が統治する世が訪れると、彦左衛門のような忠義を第一に武勇一辺倒で働いてきた家臣は徐々に居場所を失い、領国経営を担う官僚型の人材が重用されるようになる。これまでの功績ある武士ではなく、新参の文官が重用される風潮に対して、不平や寂しさを書き綴った彦左衛門だが、これが同じように不遇をかこっていた武士たちの共感を呼び、写本が出回り多くの人々に読まれるようになっていった。冒頭にあるような彦左衛門の豪快な逸話の数々は、後世に講談で脚色され創作されたものとされているが、『三河物語』に見られるような、彦左衛門の剛直で不器用な生き様が愛され、人々が親しみを込めて話をつくりあげていったのかもしれない。

『三河物語』(静岡市立清水中央図書館 提供)
彦左衛門が晩年になってから子孫に向けて残した著作であるため、家訓的な色合いが強い。徳川家と大久保家の歴史を記す一方で、子孫へは徳川家への変わらぬ忠義を強く訴えている。細部に創作はあるものの、当時を知る一級品の歴史史料として広く読まれている。

 一方で『三河物語』では、当時の武士の生活についても述べられている。奉公のため親族は多くが戦死し生活は苦しかったこと、家族が食べるものといえば麦や粟、稗の粥であったことなどがうかがえ、また、武士にとって鰹節が欠かせなかったことも記されている。「鰹節=勝つ男武士」とも通じることから、縁起物とも考えられていたという。
 刃物で削ることで手軽に食べられ、持ち運びに便利で必要な栄養素も取れる鰹節は、行軍の際には兵糧食として重宝された。同著の中で「鰹節の上皮を削って帯にはさみ、戦の前やひもじいときに噛めばことのほか力になる」と書き残しているように、出陣の際には鰹節を帯に挟んでいったようだ。
 また、彦左衛門と鰹節の繋がりを示す次のようなエピソードも伝わっている。ともに家康に仕えて武功を競い、彦根藩祖となった井伊直政(1561~1602)が病気をした時のこと。病床の直政を訪ねた彦左衛門は、「自分は鰹節を食べているため、すこぶる元気である。身分が上がって贅沢が出来るようになっても、鰹節を食べるように」と、鰹節を持ち寄って朝夕に食することを勧めたという。この時代には珍しく、80歳まで生きた彦左衛門。その健康の秘密は、ひとつには鰹節にあったのかもしれない。

製法が改良され、より身近な食に

 では次に、鰹節の歴史を見ていきたい。
 最古の歴史書とされる『古事記』(712年成立)には、すでに「堅魚(かたうお)」という記述が見られる。堅魚とは鰹のことで、天日に干すことで堅くなることからこう呼ばれたという。同時代の史料には「煮堅魚(にかたうお)」との表記も見え、こちらは鰹を煮たのちに干したものを指す。日に当てて乾燥させた鰹は保存食として優れていた。干すことで鰹の身が引き締まり、保存しやすく運搬もしやすくなるのだ。
 室町時代頃までは、単に鰹を乾燥させたものが主流で、前述のように保存食・兵糧食として活用されていた。その後、藁を燃やして乾燥させる「火乾法(かかんほう)」が生まれるなど、その乾燥法は徐々に工夫が凝らされて進化していったようだ。
 江戸時代初期の1674(延宝2)年頃には、紀州の甚太郎という漁師によって「焙煎法」と呼ばれる鰹節の新製法が考案されたという。これはナラやクヌギなどの薪を燃やした煙で鰹をいぶす方法で、その保存性や風味の良さで評判となった。

俗に世界一堅い食品などともいわれる鰹節。その製法が大いに発達したのは江戸時代と言われるが、彦左衛門の時代と同じように、のちの日清・日露戦争の際も食糧として重宝された。

 大坂や江戸から遠く離れた土佐では、交易品の鰹節にカビが生え風味が落ちるという難点があったが、逆に優良なカビを先につけてしまうことで、風味を落とすカビを抑え、優れた保存性を実現する製法を生み出した。現在の鰹節はこの時にほぼ形づくられたといわれる。
 江戸時代の食物を医学的に分析した「本朝食鑑」(1695年成立)では、鰹節の持つ効能について「気血を補い、胃腸を整え、筋力を増し、歯を丈夫にし、皮膚のキメを細かくし、髪を美しくする。あらゆる病気に用いて良い」と評している。また、同書では鰹の生食についての記述も見られ「生食する場合、からし汁(酢)に和したり、あるいは冷塩酒に和したりして、これを俗に指身(さしみ)と称している。生鮮なものは勝(すぐ)れている」としている。
 鰹の産地としては、土佐(高知県)・阿波(徳島県)・紀伊(和歌山県など)・伊勢(三重県)・駿豆(静岡県)・相州(神奈川県)・房総(千葉県など)・陸奥(青森県など)などが挙げられており、南から北まで太平洋側の広い地域で水揚げされていたことがうかがえる。
 当初、初物の鰹は1尾あたり2~3両で取引されていたが、江戸時代も末期になると、値段も1分2朱~2分(当時の医者の往診料と同程度)と値段も下がり、江戸の庶民でも食べられるようになった。こうして江戸時代を通し、鰹は身近な庶民の食として各地に普及していく。
 当初保存食としてつくられ、彦左衛門らによって重宝された鰹節は、時代とともに形や製法を変えながら、やがて日本人に欠かせない食のひとつとして広がっていったのである。