米どころとして知られる新潟県では、清酒をはじめ米を使った多くの名産物が知られているが、馴染み深い郷土料理の一つに笹団子がある。笹団子は、古くから端午の節句の折に親しまれてきたが、近年では店頭で季節を問わず目にすることができる。かつては新潟県内でも主に中・下越地方でつくられていたが、現在は県内全域に広まっている。県外に生活圏を移した家族に対し、実家から送られることも多いという。
笹団子は、次のような工程で製造される。まず、餅米とうるち米の上新粉を混ぜたものに水を加えて混ぜる。これに白玉粉と砂糖を加え、蒸したヨモギを入れこねたものを皮とし、中につぶし餡を入れる。こうして包み団子にしたものを笹で巻いた後に、蒸籠で蒸して出来上がる。
団子を包む笹は、クマザサと呼ばれるものが一般に使われている。春によく伸びたものを摘み、熱湯に通したものを日光で干し水で戻すと、色味と香りが鮮やかによみがえるのだ。クマザサには抗菌効果があるとされ、古くから食品の保存に使用されてきた。
笹団子の起こりについては様々な説が伝わっているが、その中には、越後(現・新潟県)を根拠地として戦国の世に割拠した上杉謙信(1530~1578)ゆかりの食であるという説もある。
今回は、戦国屈指の驍将(ぎょうしょう)と、その地元に根付いた郷土料理とのつながりを見ていきたい。
上杉謙信といえば、甲斐(現・山梨県)の武田信玄(1521~1573)と川中島で繰り広げた名勝負や、尾張(現・愛知県)の織田信長(1534~1582)が恐れて戦を避け続けた相手として知られる。また、乱世にあって道義を重んじ、文武両道に秀でた名将としてその武名は今日まで轟いている。上杉軍の精強さは有名で、江戸時代の庶民が戦国武将の軍兵の強さを歌った番付歌でも、上杉軍は一番に挙げられている。
その謙信が合戦において重要視していたのが、兵糧食であった。17世紀末に成立した上杉家の軍記『北越軍談』には、上杉軍が準備していた兵糧に関する記述がある。兵糧食や籠城の際の食について、米や味噌はもちろん、糠、ワラ、木の実や草木の根、芋の茎に及ぶまで多種多様な食料の調理法が詳説されている。また、謙信は独自の「兵糧丸」の研究にも熱心であった。兵糧丸とは、数種類の素材を混ぜ合わせ栄養を凝縮し薬効成分を加えたもので、丸薬状のものである。栄養豊富なうえ、小型で持ち運びにも便利であった。
そして、伝承によると、その上杉軍が兵糧食として携帯していたのが、笹団子と言われているのだ。
では、謙信と笹団子にはどのような関係があるのか。現在まで伝えられる諸説を見ていきたい。代表的なものとしては、「行軍の際の携帯食として謙信が考案した」とする説、そして「謙信ではなく、その家臣である宇佐美定満(1489~1564)が考案した」などの説があるようだ。
まず、謙信自身が笹団子を考案したという説だが、そのことを示す記録は史料に残されておらず裏付けはない。あくまで伝承の域を出ないといえよう。
次に、家臣の宇佐美定満が発明したという説。これは前述の『北越軍談』の記述がもとになっている。それによると、俗に「上杉四天王の一人」とも称される重臣・宇佐美定満が、兵糧食として笹団子を発明し、謙信もこれを用いたという。
『北越軍談』は定満の子孫を称する宇佐美定祐なる人物が著したものである。上杉家の軍制や代々の合戦などを記した軍事記録や、謙信に関する記録が豊富に含まれ、上杉氏研究の貴重な史料として参照されることが多い。しかしその一方で、上杉軍や著者の出自である宇佐美家を賛美し、引き立てようとする一面がある。中には史実を脚色したと思われる箇所も散見されるため、この笹団子に関する記述も、どの程度の信憑性があるかは疑問が残るといえる。
この他にも、北越地方の民俗をまとめた江戸時代成立の『北越風土記』には、領内の役人が笹団子を考案し、出陣する謙信に献上した、とする説などが見られる。
しかし、その後この地域(上越地方)に笹団子をつくって食べる習慣が普及したことは、史料から確認できない。郷土の兵糧食として開発され採用されたものが、その地域に伝承されていないというのも考えにくい話である。以上の点から、いずれの説も決定的とは言い難い。
そもそも、日本人はいつから団子を食していたのだろうか。その歴史は古く、縄文時代に食されていた「粢(しとぎ)」(アワやヒエ、豆、クヌギの実などを粉状にして水で練った物)が団子の原型とされる。
現在のような団子の起源は、奈良時代に遣唐使が持ち帰った「団喜」と呼ばれる供え物だといわれている。これは米の粉をこね、胡椒や塩、砂糖などの調味料と混ぜ合わせてつくるもので、日本に流入以降も仏前の供え物として定着し、日本最古の百科事典といわれる『倭名類聚鈔』(平安時代中期成立)にもその名が見られる。
その後、厄よけや行事に欠かせない食として定着した団子は、室町時代から江戸時代にかけて全国に普及していった。当時は、街道筋で茶席や行楽用にも売られ、岡山の「きび団子」や佐渡の「沢根団子」など、地域ごとに様々な種類の団子が生まれていったという。粽(ちまき)などに代表される、餅米を葉で包んで蒸す料理法は平安時代には中国より伝わっていたため、粽につくりかたがよく似た笹団子も、既にこの頃にはつくられるようになっていたとも考えられる。
農村部においては、団子は非常食と考えられていたようだ。笹団子にしても、材料は農民の生活の身近にあるものばかりである。また、一般的にイメージされる餡入りの団子が広まったのは、砂糖が庶民の手に入るようになった明治時代以降といわれ、それまではあり合わせの惣菜や味噌、クルミなど手近な食材が詰められていた。また、年貢を納めた後に残ったくず米を利用してつくられていたともいわれる。こうした背景から、笹団子は庶民の保存食として、生活の知恵の中で自然発生的に生まれたものといえるかもしれない。
それが時代の流れの中で「米どころ新潟」のイメージと結びつき、いつしか郷土の偉人と関連づけられ、様々に語られるようになった、というのが笹団子における伝承の現実的な見方なのかもしれない。