第22回 徳川光圀とラーメン ~黄門様が食した中華麺

黄門様とラーメンの意外な関係

 いまや、日本人になじみの深い食となったラーメン。ご当地ラーメン等に代表されるように、その麺やスープ、調理法は実に多彩で、様々なバリエーションが生み出されてきた。
 ラーメンは中国の麺料理文化を起源とするが、その後に日本で独特の進化を遂げた食である。中国では粉をこね引き伸ばしてつくる麺料理のことを「拉麺(ラーミェン)」と呼んできた。現在の日本の「ラーメン」という呼称はこれが起源とも言われるが、正確なことは分かっていない。
 そのラーメンを、日本で初めて食べたとされる人物が「水戸黄門」の呼び名で有名な、第2代水戸藩主・徳川光圀(1628~1700)である。
 江戸時代の講談や近年のテレビ時代劇の影響から、全国を行脚し、行く先々で弱きを助け悪を懲らしめる好々爺というイメージが定着している光圀。しかし、実際に光圀が各地を巡ったとする確かな資料は残っていない。編纂に携わった『大日本史』の資料収集のため家来を全国に派遣したり、光圀自身が領内視察を行っていたりしたことから、全国を行脚する光圀像が形づくられたと考えられている。
 後世、このようなイメージを帯びるに至った光圀だが、当時の資料を見てみると、これとは異なる意外な一面を垣間見ることができる。
 今回は、「黄門様」の実像、そしてラーメンとの関連性を見ていきたい。

徳川光圀肖像(京都大学附属図書館 提供)

名君・徳川光圀

 1628(寛永5)年、初代水戸藩主・頼房(1603~1661)の子として光圀は誕生した。徳川家康(1543~1616)の孫にあたる。幼名は長丸、のちに千代松と改め、元服し光国と名乗り、さらに長じて光圀と改めた。ちなみに呼び名として頻繁に使われる「黄門」とは官位である中納言の唐名で、彼が後に隠退する際に権中納言に任じられたことから講談等で呼び名として使われるようになった。
 少年時代の光圀は、のちのイメージと異なり必ずしも素行が良いとはいえない少年だったが、司馬遷の『史記』に出会ってからは態度を改め、勉学に励むようになったという。1661(寛文元)年に水戸藩主の座を継ぐと、古典研究や文化財の保護などの文化事業、寺社改革や修史事業に注力するようになる。
 当時の武家社会においては、儒学の影響から中国に倣うことが多かった。儒学に造詣が深く、本場の儒学者からその本領を学びたいと考えていた光圀は、長崎に渡来していた儒学者・朱舜水(1600~1682)の噂を耳にし江戸の水戸藩邸へ招聘した。

光圀が生涯をかけて編纂に取り組んだ『大日本史』。神武天皇の時代から、百代の天皇の事績と日本の歴史をまとめた歴史書。光圀の死後は水戸藩に編纂事業が引き継がれ、明治時代に完成した。全体に朱子学に基づいた尊王論が貫かれ、幕末に活躍した志士たちにも、思想面で大きな影響を与えたとされる。

 光圀に招かれた舜水は、師として、ブレーンとして光圀に助言をするようになった。それだけでなく、儒式礼法、農業や造園技術をはじめ多くの知識を光圀に伝えていった。
 もともと好奇心が旺盛であった光圀は、紙の製造や鉱山の開発、外洋航海船の建造や北海道の探検調査など、その生涯で様々な分野に手を伸ばしているが、舜水の教えが大きな影響を与えていたことは間違いないであろう。

舜水が伝えた中華麺

 食品の保存法がまだ発達していないこの時代は、その流通圏は限られたものであったが、高位の武家であり広い交友関係を持っていた光圀のもとには、大名や公家、寺社などから諸国の名産が集まった。こうした背景からか、光圀は食に対しても深い関心を持っていたようで、自ら料理をしたり調理技術を研究したりもしている。
 光圀のグルメぶりをあらわす、次のようなエピソードがある。当時、江戸で鰤(ぶり)といえば小田原沖でとれるものが一般的に美味とされていたが、光圀は「伊豆国真鶴というところの海四、五町のあいだより出る鰤あり。風味きわめて佳し。北国より出るに異ならず」(『西山公随筆』)と語っている。このように、諸国の食についての記録を多く残しているのだ。
 また、光圀の麺好きは家中でも有名で、自らうどん打ちを披露し家臣らにふるまった逸話が、光圀の言動を記録した『西山遺聞』に残っている。
 そんな光圀であるから、朱舜水に中国風の食品や調理法を教わり、自ら実践することもあったようだ。ある日、舜水は古くから中国に伝わる小麦粉と藕粉(ぐうふん=レンコンの粉)を混ぜ合わせた平打ち麺を光圀に教えたという。中国では唐代から、藕粉をつなぎに麺を打つ習慣があった。舜水は、この麺にあわせるスープの出汁(だし)を火腿(フォトゥイ)という中国のハム(豚の腿肉)でとっていたようだ。また、この時あわせて舜水によって麺の薬味も伝えられており、水戸家の資料には「五辛」と記されている。この中国由来の薬味は、にら、らっきょう、ねぎ、にんにく、しょうが、の5種であるといわれている。
 このように、舜水が光圀に中華麺を伝えたことが、光圀が日本で初めてラーメンを食したと言われる所以である。しかし、この舜水の伝えた中華麺に関して、詳細な調理法を記した資料は見つかっていないため、光圀がいわゆる現在のようなラーメンを食したのかどうかは分からない。また、舜水が伝えたこの中華麺は、広く庶民に普及することは無かったようだ。しかし、光圀が他に先駆けて中国式の麺とスープを食していたことは間違いないであろう。
※その後の研究で水戸光圀より以前に中華麺が食べられていたという発見がありました
http://www.raumen.co.jp/information/news_000671.html

そして日本独自の「ラーメン」へ進化

 ラーメンの歴史をたどっていくと、現在とほぼ同じものが日本で広く普及したのは明治時代以降のようだ。明治初期の横浜中華街には、長崎から移住してきた広東人が多く在住していたが、そこに、外国商人とともに広州や上海からも多くの中国人が進出する。そこで提供され広まったのが南京そばと呼ばれるもので、これが現在のラーメンの原形となったとされている。しかし、明確な資料が残っておらず、その南京そばがどのようなものであったのか、詳しいことは分かっていない。
 江戸時代の風俗をまとめた『守貞漫稿』によると、江戸時代、庶民相手の飲食店の代表は蕎麦屋であり、各町内に少なくとも一軒はあったというから、日本人の麺好きは昔からのもので、中国のそばが受け入れられる土台は十分にあったのだろう。
 ラーメンが日本人の生活に深く浸透したといえるのは、ここ100年ほどのことである。しかし、今から400年ほど前に、誰もが知るあの水戸黄門が食していたかもしれない…。ラーメンを食する際には、ふと江戸時代に思いを馳せてみるのも、一興ではないだろうか。

明治中期には南京そばの屋台が登場し、横浜を中心に中華料理店の開店も相次いだ。以降、大正・昭和にかけて、全国各地で中華麺を扱う店舗が登場。それに伴い、様々な味のバリエーションが生まれていった。