第23回 井伊直弼と牛肉の味噌漬け ~「赤鬼」も愛した江戸の滋養食

日本人と牛肉食の関わり

 日本で牛肉食が一般的に普及しはじめたのは、明治時代以降とされている。今日では、牛が生育された地域によって「○○牛」などと細かくブランド付けがなされており、高級食材となっているものもある。
 仏教の影響もあり、明治時代に入るまでの日本では肉食は忌避すべきものともされてきた。しかし江戸時代、牛肉は表立った形ではなくとも一部の人々には食されていた。幕末期、諸外国による外圧が強まり開国を迫られるなか、大老として国政を主導し、「桜田門外の変」によって志半ばで暗殺された井伊直弼(1815~1860)も、牛肉を好んで食していた一人とされる。また、直弼が藩主を務めた彦根藩では、当時から牛肉の味噌漬けが食されていたという。
 今回は、幕末を代表する大老の生涯、そして日本の牛肉食の歴史を見ていきたい。

井伊直弼肖像(豪徳寺 提供)

開国を断行した「井伊の赤鬼」

 反対派を容赦なく弾圧したその政治姿勢から、「井伊の赤鬼」とも恐れられた井伊直弼は、1815(文化12)年に譜代大名の筆頭・井伊家の14男として生まれた。兄弟が多かったこともあって、32歳になるまでは部屋住みとして生活していた直弼だが、国学を学ぶかたわら、和歌や鼓、槍術、砲術など多岐にわたる分野で際立った才を見せ、茶においては一派を確立するほどであった。1850(嘉永3)年に兄たちの死をうけ家督を継ぎ、彦根藩15代藩主として幕末の表舞台に立つことになった。
 以降の直弼は、藩内においては積極的に藩政改革を行う一方、将軍継嗣問題や黒船問題といった幕末期の混乱の中で、重要事に関し幕閣に諮問を受ける溜間詰上席として国政に携わっていった。
 やがて政界における主導権争いが激化すると、外交政策などをめぐり水戸藩主・徳川斉昭(1800~1860)らと激しく対立。老中首座であった阿部正弘(1819~1857)が死去すると、直弼は将軍の補佐役である大老に就任する。

桜田門外之変図(茨城県立図書館 提供)
「桜田門外の変」発生以前から、井伊家には警護を増員するよう通達がされていた。しかし直弼は、大老が失政の批判に屈したとの風評を招くと判断し、あえて強化をしなかったという。

 大老に就任した直弼は、将軍継嗣問題で自らと相容れなかった徳川斉昭らを処罰し、その後も幕政を批判する人物や攘夷派とされた者を次々と処刑していった。また、勅許を得ないままに日米修好通商条約に調印し条約を締結。反対した公家や大名、その家臣などを弾圧し、各方面から恨みを買うこととなる。
 こうした強権政治が引き金となり、1860(安政7)年3月、江戸城桜田門外において登城するところを水戸藩の脱藩浪士らに襲撃され命を落とした。いわゆる「桜田門外の変」である。
 その強引な手法が批判される一方で、開国を断行し混乱期の日本を主導したとの評価もあり、現在まで毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばする直弼。では次に、その直弼や彦根藩と牛肉がどのように関わっていくのかを見ていきたい。

薬用とされた江戸時代の牛肉

 太古から既に牛肉を食していた日本人だが、仏教が伝来して以降、やがて肉食は禁じられるようになり、天武天皇(631?~686)が肉食禁止令を発したように、度々禁止令が出された。その背景には、仏教の影響だけではなく、労働力として貴重な牛を保護する目的もあったとされる。
 とはいうものの、のちに宣教師であるルイス・フロイス(1532~1597)が「僧は肉も魚も食べないと公言しているが、裏では誰も食べている」と書いたように、人々の生活の中で肉食文化は続いていたようだ。
 江戸時代、牛肉は滋養強壮のもととなる薬とされ、江戸市中には、あくまで薬屋という扱いではあるものの、獣肉を扱う専門店もあった。牛肉には脂質やタンパク質が多く含まれ、必須アミノ酸がバランスよく含まれていることが分かっているが、当時の人々も牛肉に優れた栄養分が含まれていることを体験から知っていたのかもしれない。
 近江国(現在の滋賀県)の彦根藩では、甲冑づくりに使用する牛皮をつくる際に余った肉を味噌漬けや干し物として食していた。味噌漬けは「反本丸(へんぽんがん)」と呼ばれ、滋養強壮に効果のある薬とされた。
 その始まりについては、次のようなエピソードが残されている。17世紀末、彦根藩士である花木伝右衛門は江戸での在勤中、慶長年間に明(みん)から伝わった『本草綱目』を読む機会があった。そこには、「黄牛の肉は佳良にして甘味無毒、中を安んじ気を益し、脾胃を養い腰脚を補益す」と、牛肉の効用が記されており、それを参考に、牛肉を味噌漬けにした食を考案したのだという。当時、公然と肉食はできなかったので、薬のような「反本丸」という名を使ったのかもしれない。

大正時代には当時皇太子であった昭和天皇にも献上され、ますます広く知れ渡るようになった。もともとは日保ちさせるために味噌漬けにされたが、牛肉を味噌に漬けておくと、時間とともに硬い肉が軟らかくなり調理もしやすくなる。

 また、牛肉の干し物については、江戸前期の記録書である『御城使寄合留長』に製法が記されており「寒中に肉を割き筋を取り去り、清水に漬けて臭気を抜き、蒸してから糸につないで陰干しにする。寒中でなければ、寒明けの頃でも塩を加えなければ傷んでしまう。温暖な季節でも塩を多く使用すれば製造できるが、薬用としての性味が失われ、御用に立たない」と記録が残っている。
 彦根藩では以降、特に牛肉の味噌漬けを将軍家や各地の大名への贈り物とする習慣ができ、諸侯に大変喜ばれた。
 また、徳川斉昭が直弼に手紙を送ったという逸話も残っている。その内容は、牛肉を贈られたことに対する直弼への感謝を記したものや、後年直弼が牛肉の献上を中止した折に、斉昭がこれを催促したとするものといわれている。政治上、長きにわたって対立を続けていた両名の間で、牛肉をめぐるこのようなやり取りが行われていたのであろうか。興味深いエピソードである。

連綿と続く日本人の肉食文化

 すき焼きなど、今日のように広く牛肉が食されるようになったのは幕末の開国以降で、井伊直弼が強引ながらも積極的な開国政策をとった影響もあり各地で外国人による需要が高まり、それに伴って牛肉食が徐々に広まっていったといわれている。
 こうして牛肉は、日本人には薬用として食される一方で、開国とともに国内に増加した外国人を相手に、牛肉を扱う商売が行われるようになった。特に評判の高かった近江牛は、海運によって江戸(東京)等へも出荷されるようになり、その評判はますます高まっていくのである。
 生育環境に恵まれ、霜降りが多く肉のきめが細かいとされる近江牛。俗に言う三代和牛の一つに数えられるその味は、数百年の昔から、変わらず人々に愛されていたようだ。