パンやオムレツ、ステーキなど、現代の日本人には馴染みの深い洋食。これらは、明治の世になり、政府によって積極的に欧米諸国の文化や物品が導入されたことをきっかけに、徐々に普及していったといわれている。
その際、洋食の普及に大いに貢献したのが、福沢諭吉(1834~1901)である。慶應義塾を創設し、国家や教育の在り方について論じた『学問のすゝめ』の著者としても知られる彼は、自身もまた大の洋食好きであった。
とくに牛肉食に関しては、明治維新の以前から着目し、広く人に勧めていたという諭吉。今回は、明治期の食文化に大きな影響を与えた思想家の生涯とともに、日本人の食の変化について見ていきたい。
1834(天保5)年、福澤諭吉は豊前国(現在の福岡県・大分県の一部)中津藩の下級藩士の息子として生まれた。幼い頃より封建制度に疑問を持ち、漢学や一刀流剣術を学ぶ一方で、しきたりや信仰といった類には無関心であったという。
やがて黒船来航をきっかけに、長崎、ついで大坂に遊学し、緒方洪庵(1810~1863)に蘭学を学ぶ。1858(安政5)年には江戸に出て、のちの慶應義塾のもととなる私塾を開いている。蘭学に続いて英学を修めると、幕府による遣欧使節団に翻訳方として随行し欧州に渡る。先進諸国で見聞きした経験から、洋学の普及の必要性を実感した諭吉は、『西洋事情』などにより洋学を広め、明治維新後も『学問のすゝめ』『文明論之概略』など多くの著作を通して先進諸国の文化や国づくりの要諦を伝えた。明治初期における日本開明の気運は、福沢諭吉の影響が大きいともいわれる。また、明治政府に出仕を求められるが固辞し、あくまで民間の教育者であり続けた彼が開設した慶應義塾は、近代私学のさきがけとして、各界に指導者となる人物を輩出し続けてきた。
1868(明治元)年、元号が明治に変わると、「文明開化」の時代が到来した。明治新政府は日本を近代国家へと成長させるべく、制度・産業・文化の西洋化を積極的に進めた。そのこともあって、西洋文物の流入と生活様式の洋風化が進み、西洋の食文化が徐々に導入されていった。
江戸時代、肉食は表向きには禁止されていたが、明治時代になると、政府が肉食を推奨したことから、東京や横浜などで牛肉食が大流行した。明治初期の『東京開化繁昌誌』によると、当時の人々は牛肉をすき焼きやなべ焼き、煮つけなどで食していたという。
また、各界著名人も牛肉食を奨励していた。具体的には、戯作家である仮名垣魯文(1829~1894)は著作『牛店雑談安愚楽鍋』の中で「士農工商老若男女、賢愚貧福おしなべて、牛鍋食はねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と記し、文学者・服部誠一も「牛肉の人に於けるや、開花の薬舗にして、文明の薬剤なり。その精神を養ふ可く、その腸胃を健やかにす可く、その血肝を助く可く、その皮肉を肥やす可し」(『東京新繁昌記』)と牛肉を讃えている。
福沢諭吉も、「今我国民肉食を欠いて不摂生を為し、其生力落す者すくなからず。即ち一国の損失なり」と肉食の必要性を説いている。
その諭吉は、肉食だけでなく、ほかの洋食も好んで食したようだ。『西洋衣食住』では、「西洋人は箸を用ひず。肉類其外(そのほか)の品々、大切(おおぎり)に切りて平皿に盛り、銘々の前に並べたるを、右の手に庖丁を以てこれを小さく切り、左手の肉刺(にくさし)に突掛て食するなり」と西洋の食習慣を紹介しているほか、ビールやワインといった西洋の酒についても紹介している。諭吉が晩年に友人に出した手紙には「朝、(中略)食前に牛乳に紅茶かコツヒー(コーヒー)を加へ、パンにバタあれば最妙なり。宅にては毎朝用ひ候(後略)」とあり、自宅での朝食はほぼ洋食であったことがうかがえる。
明治初期、外国文化の流入によって、日本の食文化も大きく影響を受け、徐々に変化していった。そうしたなかで肉食文化をはじめとした洋食は、文明開化の象徴として浸透し、今日に至る。その背景には、福沢諭吉ら文化人のもたらした影響があったのだ。