第1回 江戸っ子もうなった「仙台味噌」を広めた伊達政宗

自ら料理でもてなした“奥州の覇者”

「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」

とは、戦国武将、伊達政宗が料理について、政宗の晩年の逸話を収めた『命期集』に残した言葉だ。人をもてなす際に一番重要なのは料理であり、そのメニューを管理するのは主人の仕事。ごちそうとは、たくさんの種類の料理を振る舞うことではなく、自ら料理したこだわりの品を一、二品だすことだ――、と政宗は『命期集』の中で主張している。
 政宗は料理に対して非常にこだわりを持った人物だった。1630(寛永7)年に江戸幕府三代将軍・徳川家光を接待した際には、全国津々浦々から美味・珍味が集められた。この時の献立はすべて政宗自身が考えたもので、味見から配膳までも行ったという。
 伊達政宗というと“奥州の覇者”と呼ばれるように、わずかな期間のうちに伊達家を急成長させた実力の持ち主で、派手で大胆な行動を好んだ、カリスマ性にあふれる戦国武将というイメージが強いが、同時に能や茶道などを趣味とし、芸術を愛した。文化人として美意識の高さと教養がある政宗だからこそ、料理に対しても繊細な気配りができたのだろう。

仙台城本丸跡にある伊達政宗銅像(宮城県観光課 提供)

「仙台味噌」は政宗から始まった

 「食」にこだわる政宗と非常に深いつながりを持つ食材に「仙台味噌」がある。
 「仙台味噌」とは、米麹と大豆でつくる辛みが強く風味が高いのが特徴の赤味噌である。政宗は軍用として味噌を重要視し、仙台城下に「御塩噌蔵(おえんそぐら)」という味噌醸造所を設け、品質向上を目指した。この建物は、当時の城下町の様子を描いた図会にも記されており、これによって味噌が大規模につくられるようになった。
 「仙台味噌」というネーミングには、あるエピソードがある。1593(文禄2)年の豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、諸国の武将たちは軍用に味噌の持参を秀吉から命じられた。しかし、夏場の長い滞陣の間に他の武将の味噌は腐敗してしまったが、唯一政宗が持参した味噌だけが変質しなかった。そこで政宗は他の武将にも味噌を分け与えたため、それが「仙台味噌」と称され、全国に名前が知れ渡ったという。
 ただし、1593年当時の政宗の居城は岩出山城であったことから、このエピソードの信憑性は疑問であるが、このような逸話が残されるほど、政宗と「仙台味噌」の結びつきは強かったといえる。
 その後、仙台藩二代目藩主、伊達忠宗の時代に江戸の仙台藩邸に住む侍達にこの「仙台味噌」を分け与えるため、原料を仙台から取り寄せ江戸でも味噌を醸造することとなった。「御塩噌蔵」の醸造師範となったのが常陸地方出身者だったため、仙台から伝わったこの味噌は、仙台の味噌の香りと江戸好みの甘み、常陸の味噌独特の辛みが調和し、江戸でも大変評判となった。やがて江戸市民にも「仙台味噌」の品質の高さが認められ、市民達によって「仙台味噌」と名付けられたともいわれる。

『味噌屋仲間掟留帳』(仙台味噌醤油株式会社 蔵)
仙台城下の味噌屋は、品質の安定のために同業組合(味噌仲間)を結成した。『味噌屋仲間掟留帳』には仲間への加入・脱退などが記されている

藩の経営は「食」の改革から

 味噌づくりに貢献した政宗だが、その背景には仙台藩の経営が関係していた。
 関ヶ原合戦後の1601(慶長6)年、政宗は居城を仙台城に移すと城下町の建設と藩の内政に奔走する。その中でも卓越していたのが、仙台藩の塩産業と米を大きく飛躍させた農政改革だった。
 まず塩産業に関しては、『伊達政宗』(小林清治著、吉川公文館刊)によると、

「元和六年(1620)長州(山口県)牢人によって播州流の製塩法が亘理部郡高屋村に始められたほか、寛永年間には宮城郡高城、桃生深谷・同大曲、牡鹿郡渡波・同流留に塩焼場が設定された。」(『風土記御用書出』)

とある。仙台藩の需要として政宗は塩の増産を考えた。上記の塩焼場でつくられた塩の販売は仙台藩で取り締まったという。
 もう一方の米産業に関しては新田開発を推し進め、石高の増加を図った。仙台平野には三角州など、開墾に適した土地が多く存在したのだ。新田開発によって、仙台藩は表高62万石に対し実高は100万石を越えたという。仙台藩の米は江戸でも売られ、仙台藩の経済を大いに発展させた。仙台は今でも豊かな米どころとして知られ、数百年後の1900年代には名品種とされる「ササニシキ」、「ひとめぼれ」が生まれている。伊達政宗から始まった仙台の食文化は、現代も脈々と続いているのだ。

「仙台味噌」
仙台味噌は、赤味噌の中でも代表的な味噌のひとつで、濃厚で深い味わいが特徴の味噌。伊達政宗が仙台城下に御塩噌蔵を設けると、その運営・醸造は商家である真壁屋が取り仕切り、軍用だった仙台味噌を一般市民にも広める。のちに真壁屋は100石の扶持を与えられ、武士として古木氏という姓を名乗ることも許可され、その功績が認められた。