第14回 沢庵禅師とたくあん漬け ~名僧の名を冠した伝統食

「たくあん漬け」は江戸生まれ?

 日本の各地には、古くからその土地の野菜を使った数多くの漬物が見られる。その中でもポピュラーなもののひとつに、たくあん漬けがある。天日で乾燥させたり、塩漬けにしたりして水分を抜いた大根を、ぬか床で漬けたたくあん漬けは、庶民のおかずとして親しまれてきた漬物の代表格だ。
 ところで、この「たくあん漬け」という名前の由来に関しては、さまざまな逸話がある。代表的なのは、江戸時代の禅僧・沢庵宗彭(たくあん・そうほう、 1573~1645)が考案し名付けたというものである。また、沢庵が三代将軍・徳川家光(1604~1651)にたくあん漬けを献上し、その際のやりとりからその名が生まれたとするものもある。他にも、沢庵和尚の墓石がたくあんを漬ける重石と似ていることに由来するという説も存在するようだ。
 いずれにしろ、たくあん漬けと沢庵には、何らかの関わりがあるといわれてきた。日本の伝統食にその名をとどめる沢庵和尚とは、どのような人物であったのだろうか。たくあん漬けとの関係もあわせて、その歴史を紐解いていきたい。

沢庵宗彭 肖像(祥雲寺 提供)

将軍の相談役となった沢庵

 沢庵宗彭は、16世紀に但馬国(現在の兵庫県北部)を治めた山名氏の家臣の子として生まれた。やがて羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉、1537~1598)によって主家が滅ぼされたため、彼は10歳で出家し浄土宗の唱念寺に入る。1594(文禄3)年、京都の大徳寺にて臨済宗の僧・春屋宗園(しゅんおく・そうえん、1529~1611)の門に入ると、詩歌や書画、茶道など諸事に通じ名利にとらわれない沢庵は、次第に名僧として知られるようになり、禅僧にとって栄誉とされる大徳寺住持にまで栄進する。
 1603(慶長8)年、徳川氏によって江戸幕府が成立すると、幕府は大徳寺をはじめ大寺院と朝廷との結びつきを警戒し、両者の関係を弱めるべくさまざまな規制を設ける。なかでも決定的だったのが、天皇が出す大徳寺の住持などへの紫衣(しえ、紫色の袈裟・法服のこと)勅許が、天皇と公家を規制するために設けられた「禁中並公家諸法度」に反していると、幕府に問題視されたことであった。これには沢庵はじめ多くの僧が集結し、大規模な反対運動を展開した。のちに紫衣事件と呼ばれるこの騒動により、沢庵は出羽国(現在の山形県と秋田県一帯)上山に流罪となるが、ことにおいて理にそわないものに屈せず、己の信義を貫こうとする沢庵の姿は、人々に感銘を与えたという。

1730(享保15)年に刊行された『料理網目調味抄』。当時の食文化や各料理法にはじまり、調理の際の注意点、用語の説明など、その内容は多岐にわたる。江戸時代の人々の食生活がうかがえる、総合的な料理書といえる。(東北大学附属図書館提供)

 やがて徳川家光の時代になると、沢庵は赦されて家光に拝謁する。その人柄に魅せられた家光は沢庵に深く帰依し、政事に関する相談を度々するようになった。1639(寛永16)年には家光により、現在の東京都品川区に東海寺が建立され、沢庵が住職に任命されている。以降、沢庵は幕府の治世に強い影響力を持ち続けたといわれている。

「たくあん」をめぐる伝承

 その沢庵ゆかりの東海寺には、沢庵とたくあん漬けを結ぶ次のような言い伝えがある。家光に東海寺開山を命じられた沢庵は、ここで塩とぬかを入れた大根漬けをつくりはじめた。ある日、家光が東海寺を訪れた際にこの大根漬けを供すると、家光はその素朴な風味をいたく気に入った。そして、これは何という漬物かと沢庵に尋ねると、沢庵は、特に決まった呼び名はないと答えた。それを聞いた家光は、その場で漬物をたくあん漬けと名づけ、以降そう呼ぶように命じたという……。
 このエピソードを裏付ける史料文献は残っていないが、沢庵の死後現代に至るまで、東海寺では代々その逸話が伝えられてきた。また、江戸期の食文化を記した『守貞漫稿』や『物類称呼』といった史料にも、ぬか漬け大根をたくあん漬けと呼ぶのは、沢庵和尚に由来するという記述が見受けられる。
 一方で、同じ江戸期に刊行された辞書『書言字考節用集』には「沢庵但馬人……墓標一箇円石己、今、此物其制之故名云」とあり、たくあんを漬ける際の重石に似た沢庵禅師の墓石が、たくあん漬けの名の由来になったとされている。その墓石にしても、沢庵和尚自らが生前から用意していたのかは分からず、死後に誰かが用意したとも考えられる。このようにはっきりとしたことは判明していないが、沢庵和尚とたくあん漬けの関連性に関しては、江戸時代からさまざまに語られていたことが分かる。

沢庵が一時暮らした上山では、現在でもその遺徳をしのんで、たくあんの漬け込み作業を行う「香の物祭」が開かれている。

伝承が生まれた背景

 ここで改めて、日本におけるぬか漬けの歴史を見てみたい。その発生は古く、平安時代には既につくられていたことが史料からうかがえる。沢庵が属した禅寺では、ぬか等を使った漬物がよくつくられていた。その禅宗が盛んになったのは鎌倉・室町期であったから、当時からさまざまな漬物がつくられ、なかには身近な大根を使ったたくあん漬けに類する漬物が存在していたかもしれない。
 18世紀に刊行された料理本『料理網目調味抄』や『物類称呼』によると、江戸初期には江戸だけでなく、京都や九州でも大根のぬか漬けが食されていたことが確認できる。それらは地域によって「から漬け」や「百本漬け」等とさまざまな呼び名で呼ばれており、その中でも江戸においては、たくあん漬けの名が冠されるようになったようだ。
 沢庵は将軍に重用されただけでなく、侍から庶民まで幅広い層から愛されていた。また江戸時代、たくあん漬けは江戸近郊の農村でつくられ、江戸の庶民はそれを購入して食していた。そうした背景もあり、禅寺でつくられていた大根のぬか漬けが、江戸の庶民によって沢庵和尚と結び付けられたのではないだろうか。